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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第11章 一日で届く手紙

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第110話 雷木の樽

 樽屋の年寄りは、杖を樽の縁に立てかけて、銅の箍を叩いていた。


 谷の樽屋の作業場は、湖の北の、半地下の長い小屋だった。天井から雷木の板が何十枚も吊られ、床には削り屑が膝の高さまで積もっている。年寄りは片脚を切り株に載せ、もう片方の脚で体を支えて、木槌を振っていた。春に杖で歩き始めてから、この小屋に戻るまで一月もかからなかった。


「漏れるなら、樽で囲え」


 春先に寝台の脇で言った言葉を、年寄りは夏じゅうかけて形にしていた。


 雷木の板を三重に張る。一番内側に雷硝子の粉を練り込んだ膠を塗り、その外にもう一枚、さらに外に一枚。板と板の間に、ハルデンの銅を薄く延ばした帯を挟む。箍も銅で、樽の胴を上から下まで締めている。


「重いな!」アルノは樽の胴に抱きついて、持ち上げようとして、やめた。「これ、どのくらいあるんですか」


「騾馬に二つ」年寄りは木槌を置いた。「一頭で二つ、振り分けで運べる。それ以上は、騾馬が嫌がる」


「二型の壺は、何個分ですか」


「数えるのは、そっちの仕事だ」年寄りは箍の継ぎ目に楔を打ち込んだ。


 アルノは笑って、樽の栓を叩いた。こん、と詰まった音がした。雷木の栓は、エーミルの工房で二型のために考えた形を、年寄りが樽の口の大きさに削り直したものだった。


「試していいですか」


「そのために作った」年寄りは杖を取って、樽の脇から一歩退いた。


     * * *


 その日の午後、尾根の上に雲が育った。アルノは樽を湖の岸の杭の脇へ運ばせた。いつもなら、樽や壺は杭から満たす。雷は杭に落ち、杭の銅線を通って壺へ入る。人の体は通らない。けれど今日は、樽にどれだけ入るかを自分の腕で確かめたかった。


「一本だけです」アルノはベアタに言った。「上限の内です。ずっと内です」


「前のが引いてりゃね」ベアタは手首を取って脈を数え、手を離した。「引いてる。一本だけだよ。もう一本呼んだら、この樽屋に頼んで棺桶を作らせる」


「わしは樽しか作らん」年寄りが杖の先で床を突いた。


「なら樽でいい」


 年寄りとベアタが睨み合っている間に、尾根の上が光った。アルノは樽の口の銅の芯に左手を当て、右手の指先に火花を一粒灯した。


 空が答えた。


 一本が、湖の岸の杭のすぐ手前へ降りてくる。アルノの指先から肘へ、肘から肩へ、肩から胸を横切って左腕へ。左手の薬指と小指は何も感じないまま、残りの指の先で、雷が樽の芯へ吸い込まれていくのが分かった。


 一瞬、樽の胴の銅の箍が、上から順に青く光った。光はすぐに板の奥へ沈んで、樽はただの樽に戻った。


 アルノは芯から手を離し、口の中で舌を転がした。


「……木の味がします」


「何だと」年寄りが眉を寄せた。


「木の味です! 雷木の、削ったばかりの、あの匂いの味!」アルノは樽の胴を両手で叩いた。「樽屋さん、この樽、雷の味を変えます! すごいです!」


「味なんぞ知らん。漏れるかどうかを言え」


「一月、見ます」アルノは樽の栓を撫でた。「でも、漏れません。二型より、ずっと」


 年寄りは若い男爵の顔をしばらく見ていた。言い切ったな、と言いたげに鼻を鳴らし、また木槌を取った。


     * * *


 一月後に帳面で確かめることを、アルノはこの日のうちに指先で知っていた。樽の中の雷は、一月たっても二十のうち一つしか減らなかった。


 夕方、作業場で、年寄りは火床に鉄の焼き印を差し込んだ。


「名前を、訊いたな」年寄りは焼き印が赤くなるのを待ちながら言った。アルノは頷いた。去年の秋、寝台の上で訊き、樽屋でいい、と言われた。春先に、樽ができたら樽に書く、と言われた。


 年寄りは焼き印を火床から抜き、樽を横に倒して、底の板に押し当てた。


 白い煙が上がった。雷木の焦げる匂いが、作業場いっぱいに広がる。焼き印を離すと、底の板に、角ばった字が黒く沈んでいた。


 ヨアヒム。


「……ヨアヒムさん」


「樽屋でいい」年寄りは焼き印を水桶に突っ込んだ。じゅっと音がした。「呼ぶのは樽屋でいい。書くなら、それだ」


 アルノは懐から天気帳を出した。去年の秋の頁を開く。伯と戦った三日後に書いた、負傷した者の名前の列。峠の見張りの若い者の行の横には、この夏書き足した日付と名前がある。その下に、黒羽団の者たちの名前。櫂で手を切った子どもたちの名前。そして、最後の行。一年、空けておいた行だった。


 アルノは樽の底の字を見ながら、その行にヨアヒムと書いた。脚、と横に書き、考えてから、その横に、樽、と書き足した。


 年寄りは覗き込まなかった。杖を取り、作業場の奥へ戻っていった。削り屑を踏む杖の音が、いつもよりゆっくりだった。


     * * *


 その夜、峠の拍が谷へ下りてきた。伯の使者が、峠の番小屋に書状を置いていったという。ボルクはそれを信手に読み上げさせ、そのまま谷へ打たせていた。ハンネが控えの紙を持って領主館へ走ってきたとき、イルゼとアルノはまだ卓にいた。


 ハンネは紙を読み上げた。評議会と峠の西の諸侯の総意として、鉄喰い峠を評議会預かりとする。王国の街道の要を、一つの男爵家に任せておくことはできない。秋の北風の十日に、峠を受け取りに参ります。


「……来ました」アルノは言った。窓の外の尾根は、もう暗かった。


「来たな」イルゼが帳簿を開いた。「去年と同じ十日か」


「伯爵さんは、同じ十日を選びます。記録があるから」


 ハンネは紙の最後の行を指でなぞった。伯の書状は、いつも最後に一行を足す。


「まだある」ハンネは言った。「最後に、一行」


「読んでください」


 ハンネは紙を目の高さに上げ、伯の字を写した自分の字を、一文字ずつ読んだ。


「記録によれば、北風の十日の朝、峠は晴れています」


読んでいただきありがとうございます!

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【第11章「一日で届く手紙」のあらすじと登場人物】(第101〜110話)


■あらすじ

 男爵となったアルノのもと、黒羽団は騎兵に、雷信の線は王都へと延びていく。だが組合に雇われた者が丘の中継所を焼き、塔守ミロシュは最後まで拍を打って死んだ。最後の柱が立った日、王女の手紙は一日も要らずに王都と往復して雷信は谷の物と認められるが、伯からは北風の十日に峠を受け取りに来るとの書状が届く。


■登場人物


◆アルノ・ブラウエン

 ザーラの男爵になったが、「男爵様」と呼ばれるとまだ振り返る。ミロシュを失うと、塔を焼いた十人を十の筋で倒し、イルゼには「塔に残ったのは、一人でした」と告げた。塔はすべて二人番、知らせは一文字でいいと決まりを改め、峠では王都への一通を小屋の数で数えた。


◆イルゼ

 谷の財務官。黒羽団の馬を揃え、王都までの柱を「二十日余る」と言い切って間に合わせた。二年目の支払いは拍一つで済ませ、協定では「相場は、誰にでも同じ速さで」と一条を消させる。王女に王家財務官の席を示されても、谷の金庫の鍵を握って断った。


◆ボルク

 峠の守りの長。男爵領の印は「要らん」と断り、代わりに番小屋の屋根を直せと言った。ミロシュの死を受けて、十一年増やさなかった壁の一番下にその名を刻む。訪ねてきた母親には、「最後まで、峠に知らせた」とだけ伝えた。


◆ハンネ

 受け小屋の信手の頭。丘から届いた最後の拍の続きを、指を折りかけたまま待ち続けた。最後の柱が立った日には峠から王女の手紙を打ち、月の出前に戻った王の返事を読み上げる。イルゼが残るほうに、小石を五つ賭けた。


◆ズデンカ

 黒羽団の頭。隊をそっくり騎馬に揃え、臣従の誓いではなく一年ごとの契約で騎兵と斥候の長になった。「あんたの十人にはならない」と言う彼女に、アルノは「だから契約です」と応えた。丘の焼け跡では、足跡から十人の数とミルデの靴を読み取った。


◆ベアタ

 谷の医師。新しい樽を自分の腕で試したいというアルノの脈を取り、前の焼けが引いたのを確かめて一本だけ許した。もう一本呼んだら樽屋に棺桶を作らせると言い、「わしは樽しか作らん」と返されて睨み合う。


◆シルヴィア

 第二王女で、谷の債権者。馬で峠を下りて谷を歩き、柱の数と日数を短い問いで詰めた。雷の鳴る岩に自分から登り、アルノと並んで声に出して数える。協定ではイルゼと渡り合い、王家財務官の席まで差し出したが、断った理由は「あいつに訊け」とはぐらかされた。


◆ミロシュ

 峠の塔守。母と妹の村が見える丘の中継所を自ら望み、見習いと二人で詰めた。夜襲の夜、見習いを退き口から逃がし、自分は「シュウゲキ ニシ ジュウ」と打ち続ける。切れた銅線の端を握ったまま、焼けた塔の下で見つかった。


◆ヨアヒム

 これまで「樽屋の年寄り」と呼ばれてきた谷の老人。杖で作業場に戻り、雷木の板を三重に張って銅の箍で締めた樽を、夏じゅうかけて仕上げた。その底に焼き印で名を刻み、「呼ぶのは樽屋でいい」と言う。アルノは一年空けていた天気帳の行に、その名を書き入れた。


◆ウルリヒ・レーゲン伯

 峠の西に領地を持つ伯爵。私領に他家の柱は立てられないと法どおりに断り、線を王の街道の遠回りへ追いやった。章の終わりには、評議会と諸侯の総意として鉄喰い峠を受け取りに来ると書状で告げる。末尾の一行は「北風の十日の朝、峠は晴れています」。

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