第109話 断る理由
夕方、王女の書記が領主館の戸口に立った。
「財務官殿。殿下が、湖の岸でお待ちです。お一人で、と」
イルゼは帳簿から顔を上げ、書記を見て、それから卓の向かいのアルノを見た。アルノは天気帳から目を上げなかった。上げないように、頁を睨んでいた。
「……行ってくる」イルゼは帳簿を閉じ、紐を胸元に押し込んだ。
イルゼが出ていくと、戸口の外から、からりと小石の鳴る音がした。
「賭ける?」
ハンネが、小石の壺を抱えてしゃがみ込んでいた。去年の夏と同じ場所だった。
「賭けません!」アルノは天気帳を立てて顔を隠した。
「ハンネは、残るほうに五つ」
「賭けないって言ってます! ……五つって、去年より多いじゃないですか」
「去年より、確か」ハンネは真面目な顔で言った。
ハンネは壺から小石を五つ出して握り、湖の方を見た。アルノも、窓の外の湖を見た。天気帳の頁は、さっきから一行も進んでいなかった。
* * *
湖の岸で、シルヴィアは平たい岩に腰かけていた。
午後の雷が去ったばかりで、湖面はまだ波立っていた。夕陽が雲の切れ目から差し、濡れた岸の石を一つずつ光らせている。イルゼが近づくと、王女は隣の岩を目で示した。イルゼは座らず、立ったまま腕を組んだ。
「王家財務官の席が、一つ空いています」シルヴィアは前置きをしなかった。
「王都の財務の庁舎に、あなたの机。王家の金庫の鍵の一本。組合に借りている王家の借金を、どの順で、いくらで、いつ返すか。それを決める者の一人です」王女は湖の方を向いたまま続けた。「国を相手に、貸す側に立てます。組合から借りた国を、組合から取り返す側に」
イルゼは答えなかった。湖の沖で、魚が一つ跳ねた。
「月の給金は、今の谷の三倍。書記を三人つけます。住まいは、城の西の、財務の官舎」
「……ずいぶん調べたな」イルゼは鼻を鳴らした。「うちの帳簿を、いつ覗いた」
「覗いていません。あなたが谷に来るまでの何年か、ミルデの商会で一度も給金を上げてもらえなかったことは、組合の帳簿に載っています」
「今朝の協定で、あなたが一条を消させました。相場は、誰にでも同じ速さで」シルヴィアはようやくイルゼを見た。「私の周りに、あれを言える人はいません。言える人は、皆、組合の側にいます」
イルゼは湖を見た。王都の庁舎の机。王家の金庫の鍵。借りた者の畑を取り上げてきた手で、今度は国の借金を返していく。ミルデの路地で帳簿を抱えていた頃に、いつか、と思っていた場所より、ずっと上の席だった。
胸元に手をやった。帳簿の紐に結んだ雷木の鍵が、指に当たった。四枚しか入っていなかった箱の、鍵だった。
去年の秋、あの箱を卓に置いた男は、谷のが最初です、いつかイルゼさんのも、と言った。岩の上で心臓が止まって、戻ってきて、三日目に目を開けた男だった。王都の庁舎の机に座っても、窓の外が光れば、あの男が岸の岩へ走っていくのが見える気がした。帳簿を放り出して、数えるなと怒鳴りに行きたくなる気がした。
「断る」
シルヴィアは表情を変えなかった。そう答えることも、帳簿に書いてあったような顔だった。
「理由を、訊いても?」王女は岩の上で、膝の上に手を重ねた。
「あたしの金庫は谷にある」イルゼは紐の先の鍵を持ち上げて、夕陽にかざした。「鍵も、ここにある」
「その金庫は、谷の金庫でしょう。あなたの物ではない」
「そうだよ」イルゼはあっさり言った。「まだ、な」
「王家の金庫の鍵のほうが、ずっと重い」
「重いのは知ってる」イルゼは鍵を胸元に戻した。「重さで選んでたら、あたしは今ごろ、爺さんの商会で一割もらって、取立ての窓口に座ってる」
シルヴィアはしばらくイルゼの顔を見ていた。問いを重ねる顔だった。けれど、すぐには次の問いが出てこなかった。
「……もう一つだけ。理由は、それで全部?」
イルゼは背を向け、岸の石を踏んで歩き出した。三歩行って、振り返らずに言った。
「残りは、あいつに訊け」
* * *
日が暮れてから、シルヴィアは領主館へ来た。
アルノは卓で、同じ頁の天気帳を開いたままだった。戸口に王女が立つと、慌てて立ち上がり、梁に頭をぶつけた。
「で、殿下……!」アルノは頭を押さえたまま、中腰で固まった。
「座って」シルヴィアは卓の向かいに立ったまま言った。「あなたの財務官を、王家財務官に招きました」
アルノは椅子に座り直した。「……はい。知ってます」
「断られました」
アルノの手が、頭から落ちた。ぶつけた痛みのことは、もう忘れていた。
「断った……」アルノは卓の木目を見た。「イルゼさんが」
胸の中で、何かがほどけた。ほどけてから、それがずっと固く結ばれていたことに気づいた。王都の机も、王家の金庫の鍵も、イルゼさんにはきっと似合う。似合うと思っていたのに、断ったと聞いて、真っ先に息をついた自分がいた。
戸口の外で、小石が壺の底に落ちる音が五つ続いた。
シルヴィアはそれを聞いて、ほんのわずかに眉を上げた。それからアルノに目を戻した。
「理由は、あなたに訊けと」
アルノは王女の顔を見た。王女は、答えを待っていた。帳簿の数字を待つときと同じ顔で。
「え……私にですか!? 何をです!?」
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