第108話 協定
夏の終わりの朝、領主館の卓には何も載っていなかった。
去年の今ごろ、この卓の上には金貨の塔が立っていた。イルゼとアルノが二晩かけて数え、十枚ずつ積み、崩れないように塔の間に木の楔を挟んだ。期限の朝、その塔を麻袋に詰め、騾馬に積んでミルデまで運んだ。
今朝、卓の上にあるのは、受け小屋の控えの紙が一枚だけだった。
「本当に、これで払ったことになるんですか」アルノは紙の端をつまんで、そっと揺らした。裏返して、また表に戻す。
ハンネの角ばった字で、短い一行が書いてある。ウケトリ サンビャクロクジュウヨン レオポルト。
「なってる」イルゼは帳簿に線を引いていた。「王都の倉の小屋の金箱に、夏じゅう王都で払われた速達料と、ハルデンの年契約の払いが溜まってた。あたしが今朝、拍で小屋の信手に言った。その箱から三百六十四枚出して、倉の隣の王家財務の窓口へ持ってけ、ってな。受け取りの拍が、今のそれだ」
「金貨は、どこを通ったんですか」
「倉の小屋から、財務の窓口まで。三十歩だとよ」
「三十歩……」アルノは紙を持ち上げて、窓の光に透かした。「去年は、峠を越えて、ミルデまで四日かかりました」
「今年は、一枚も数えてねえ」イルゼはペン先を拭った。
それからペンを置き、腕を組んで、空っぽの卓を見下ろした。何か足りない、という顔だった。
「数えるもんがねえ」
卓の向かいで、シルヴィアが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「受け取りました」王女は控えの紙に目を落とした。「二年目の支払いは、期日どおり。王家財務の帳簿にも、今朝の日付で載っています」
「王家の帳簿に、もう載ってるんですか!?」
「レオポルトが、受け取った拍を打った後に書きました。あなたたちがその紙を読む前に」
アルノは紙と王女の顔を見比べた。王都の倉の脇の窓口で、灰色の外套の書記官が、谷の誰も見ていない金貨を数えて帳簿に書く。その間、谷の者は寝台で眠っていた。
「なんだか、ずるいです」
「ずるいのが為替だ」イルゼは鼻を鳴らした。「覚えとけ。来年からは、これが普通になる」
「で、残りだ」イルゼは帳簿の次の頁に指を挟んだ。
* * *
協定の紙は、王女が王都から持ってきていた。
雷信は谷の物。老王の署名は、あの夜の拍で済んでいる。王家の手紙は、どの手紙より先に打つ。残りの借りは、王家財務が雷信に払う速達料と為替の手数料から、月ごとに差し引いて消していく。
イルゼは一条ずつ指で押さえて読み、三つ目まで頷いた。四つ目で、指が止まった。
「相場の知らせは、王家に先に」イルゼは声に出して読み、顔を上げた。「こいつは呑めねえ」
「理由は」シルヴィアが訊いた。
「相場ってのは、誰がいつ知るかで値がつく。ミルデの麦の値を、王家が組合より先に知る。そりゃあ王家は儲かるさ。けど、それをやったら、雷信は組合の早馬と同じになる」イルゼは紙を指で弾いた。「爺さんの早馬が百頭いた頃、その早馬が運ぶ値が動くたびに、あたしは小作の戸を叩きに行った。先に知った奴が勝つ仕組みは、もう見飽きた」
「王家は、組合ではありません」シルヴィアの声は平らだった。
「知ってる。だから言ってんだよ」イルゼは王女をまっすぐ見た。「相場は、誰にでも同じ速さで。粉屋にも、鉱山にも、王家にも、組合にも。それが谷の雷信の値打ちだ」
アルノはイルゼの横顔を見ていた。去年の夏、組合の秤の話をしていた時と同じ顔だった。あの時より、声が静かだった。帳簿を押さえる指の爪が、白くなっていた。
シルヴィアはしばらく協定の紙を見ていた。それから、ペンを取った。
「では、その一条は消します」
イルゼの肩から、力が抜けた。アルノは卓の下で、そっと拳を握った。
「代わりに、一条足します」シルヴィアは紙の余白に書き始めた。「王家の手紙は、無料で打つ」
「……は?」イルゼのペンが止まった。
「王の手紙、王太子の手紙、評議会への王家の手紙。財務の為替と速達は、これまでどおり料金を払います。相殺はそこから」
イルゼは紙を引き寄せて、王女の書いた一行を読んだ。読みながら、指で帳簿の頁をめくり、何かを数えている。数え終えて、顔をしかめた。
「……王家の手紙が無料なら、相殺が細る。借りが消えるのが、一年は延びる」
「延びますね」
「利息は」イルゼの声が低くなった。
「一割五分のまま」シルヴィアは表情を変えなかった。「相場を王家に先に、の一条を戻すなら、この一条は消します。どちらにします?」
アルノはイルゼを見た。イルゼは王女を見ていた。二人とも、瞬きをしなかった。
「殿下」アルノが口を挟んだ。「王家の手紙って、どのくらい打つんですか」
「今は、月に二十通ほど」シルヴィアは言った。「来年は、分かりません」
その答え方で、イルゼの眉が寄った。来年、王家の手紙がどれだけ増えるのか。王女は知っていて、言わなかった。
「……爺さんの秤を外したと思ったら、今度は王家の秤かよ」
「秤は、使う者の物です」シルヴィアはペンを置いた。「では、王家の手紙は無料で。……それとも、相場を先に? どちらにします?」
イルゼは長いあいだ黙っていた。それから、帳簿を閉じた。
「……無料でいい。そっちの勝ちだ。今日はな」
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