第107話 一日で届く手紙
最後の柱が立ったという拍は、昼前に届いた。
王都の城壁の外、王家の倉の脇に立てた一本だった。その柱から東へ、ブラウエン領の丘、ミルデの外壁、伯の領地の縁の王の街道、丘の中継所、峠。谷の受け小屋の針まで、線は一本につながった。拍を打ち直す中継所は十五。どの小屋にも、信手が二人ずついる。
「サイゴノハシラ タツ」ハンネが読み上げた。
受け小屋の中で、しばらく誰も声を出さなかった。アルノは息を吸い込んだまま、吐くのを忘れていた。
「……北風の十日まで、二十日余った」イルゼが帳簿を閉じた。「言ったとおりだ」ペンを耳に挟み直す指が、わずかに震えていた。
シルヴィアは卓の前で、もう紙を広げていた。整った、細い、速い字で、数行を書く。書き終えると紙を折らずにハンネへ渡した。
「これを、王都へ。宛先は、王家の倉の受け小屋にいるレオポルト。今すぐ」
ハンネは紙を受け取り、窓の外を見た。湖の上に、今日の雲が育ち始めていた。
「今は、打てない」ハンネは言った。「谷の午後は、受けるだけ。線に雷が乗る」
「峠からは」シルヴィアは窓を見ずに訊いた。
「峠も、午後は雲の下」ハンネは首を振った。「鎖を下ろして、受けるだけ」
シルヴィアは窓の外の雲を見た。それからアルノを見た。
「では、雲が行ってしまうのは何刻です?」
「日暮れです」アルノは即座に答えた。「今日は南の風が弱いから、雲は尾根で長く遊びます。日が山に落ちる頃に、東へ抜けていきます」
「峠まで、どのくらい」
「馬で、一刻半です。殿下の馬なら、もっと早いです!」
「では、峠で待ちます」シルヴィアは立ち上がった。「西へいちばん近い小屋から、雲が抜けたらすぐに」
* * *
峠の番小屋の脇で、一行は雲が抜けるのを待った。
午後じゅう、雷は谷と尾根と峠の上に落ち続けた。アルノは番小屋の戸口で、数えたいのをこらえて膝を抱えていた。三度、口の中で「いち」と呟き、そのたびにイルゼに肘でつつかれた。
小屋の中では、シルヴィアがボルクの淹れた苦い茶を黙って飲み、壁の名前の列を長いあいだ見ていた。一番下の、新しい一行も。
「この名前は、全部、あなたの部下?」
「そうだ」ボルクは炉の火を見たまま答えた。
「雷で?」
「一番下のを除いて、な」
シルヴィアは茶碗を膝の上に置いた。「王家は、あの塔の代わりの柱の代金を払います。塔守の家族への見舞いも」
「払うなら、母親にじかに払え」ボルクは言った。「谷を通すと、そこの財務官が利息をつける」
「つけねえよ!」戸口でイルゼが怒鳴った。「見舞いに利息つける取立屋がどこにいんだ」
「昔、いたと聞いた」
イルゼは口の中で何か言って、帳簿で顔を隠した。王女の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。アルノはそれを見て、膝を抱えたまま小さく笑った。
日が西の平野に傾いた頃、最後の雷鳴が東へ遠ざかった。
雲が割れた。割れ目から夕陽が差し込み、濡れた峠の岩が一斉に赤く光る。ハンネが番小屋の脇の受け小屋へ走り、壺の口に手を置いた。
「打てます」ハンネが振り向いた。
シルヴィアが戸口に立った。「今夜のうちに、返事は来ますか」
アルノは王女の顔を見た。それから、西の平野を見た。
「来ます!」
言い切った声が、峠の岩に跳ね返った。イルゼが横目でアルノを見た。アルノは続きを言わなかった。イルゼは何か言おうとして、帳簿を抱え直しただけだった。
ハンネの指が、銅線の端を壺の口に当てて、離した。
* * *
峠の頂から、西の平野が見下ろせた。夕暮れだった。空の下半分が橙色に燃え、上半分はもう藍に沈みかけている。
平野を縫って、王の街道が白い糸のように西へ延びていた。その糸に沿って、雷木の柱が点々と立っている。遠くなるほど柱は細く、短くなり、しまいには夕陽の中に溶けて見えなくなる。
最初に光ったのは、丘の中継所だった。峠から西へ下りた最初の丘。建て直したばかりの板の小屋の窓に、青い火花が一つ跳んだ。一つ、二つ、間、三つ。ハンネの打った拍を、丘の二人が受けている。受けた拍を、すぐに打ち直す。
少し遅れて、その先の小屋の窓が青く瞬いた。
ミルデの手前の、川沿いの小屋。ミルデの外壁の脇の小屋。そこから先は、夕陽の眩しさの中で窓が見えなくなる。
けれど、見えなくなった先でも、拍は走っていた。王の街道の上を、伯の領地の縁をぐるりと回り、ブラウエン領の丘を越え、王都の城壁の外の倉まで。十五の小屋の三十の手が、一つの手紙を次の小屋へ渡していく。
アルノは峠の岩の上に立って、光るたびに数えていた。丘。川。ミルデの外壁。
そこから先は光が見えないので、胸の中で拍の速さを数えた。今、ミルデの西の小屋。今、伯の領地の角。今、ブラウエンの丘。屋根裏の窓から見えた丘。兄が、念のため、と塔の足に鎖を巻かせた丘。
「……十五」
最後の数を、アルノは声に出していた。途中から、全部声に出していた。後ろでイルゼが「おいおい」と呟いた。
隣に、いつのまにかシルヴィアが立っていた。夕陽が王女の頬を赤く染めていた。王女は西の平野の、光の見えなくなった先を見ていた。
「今、どこです」
「王都です」アルノは言った。「今、倉の小屋の針が、跳んでます」
「見えるの?」王女が訊いた。
「見えません!」アルノは西を指さした。「でも、数えました。ハンネさんの拍の速さと、小屋の数で。今、レオポルトさんが紙を持って走り出したところです」
シルヴィアが横目でこちらを見た。「言い切るのね」
「言い切ります! 数えましたから」
* * *
日が沈み、峠に星が出た。番小屋の中で、誰も眠らなかった。ボルクは炉に薪をくべ続け、イルゼは帳簿を膝に載せたまま、同じ頁を開いていた。シルヴィアは窓の脇の丸椅子に座り、背筋を伸ばして、目を閉じていた。眠っているのか、数えているのか、アルノには分からなかった。
ハンネは受け小屋の針の前から動かなかった。夕飯の黒パンも、針の前で齧った。
月が東の尾根から上がりかけた頃、針が跳んだ。
ハンネの指が折れ始めた。アルノは戸口に飛びつき、シルヴィアが目を開けた。拍は長かった。行の拍、間、段の拍。ハンネは膝を叩いて数を継ぎ、控えの紙に一文字ずつ書き起こしていく。
最後の拍が止まった。
ハンネは紙を持ち上げて、読み上げた。「オウノ ナニオイテ ライシンヲ ザーラノ モノト ミトメル。……ギョメイ グレゴール」
番小屋の中で、しばらく誰も動かなかった。レオポルトは王都で手紙を受け取ると、倉の小屋から城の中の王の寝所まで走った。用意しておいた書状に老王の署名をもらい、その文言を小屋へ持ち帰って打たせた。谷の午後の雷が止んでから、月が上がるまでのあいだに。
シルヴィアは控えの紙を受け取り、読んだ。もう一度読んだ。
「……一日も、要らなかったのね」
イルゼが帳簿を開き、ペンを取った。
「で、この一通、いくらにします?」
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