第106話 王女の午後
王女は、馬で峠を下りてきた。
馬車を使わなかったのは、峠の坂に馬車の通れない曲がり角が三つあると、前もって拍で訊いてきたからだった。護衛は六騎。その後ろに、若い書記が一人、鞍の上で帳面を広げたまま揺られている。ミルデの競りで硝子の大樹を落とした灰色の外套の書記官は、王都の側の端の小屋に残してきた、と王女は言った。
イルゼは朝から領主館の床を三回掃いた。卓の脚の下に楔を噛ませ、欠けた茶碗を棚の奥へ押し込み、帳簿の紐を二度結び直した。
「半地下だぞ。王女が、半地下に入るんだぞ」
「屋根が低いので、頭をぶつけないように言います!」アルノは戸口の梁を指さした。「私も、三回ぶつけました」
「そういう心配じゃねえよ」イルゼは箒を壁に立てかけた。「借金取りが見に来んだぞ。国でいちばん偉い借金取りが」
坂の下で、シルヴィアは馬を下りた。旅の埃を払う間もなく、手袋を外しながら谷を見回した。尾根、湖、段々畑、その間を縫って立つ雷木の柱の列。視線が柱の一本一本を数えるように動いて、最後にアルノの顔で止まった。
「殿下! ようこそ、ザーラ谷へ!」
「座って話す時間は、あまりありません」シルヴィアは手袋を書記に渡した。「歩きながらで。丘の塔守のことは、拍で聞きました」
アルノの顔から、笑いが引いた。
「……はい」アルノは拳を握った。
「塔は、建て直しましたか」
「七日前に。二人番で、夜は一人が必ず起きてます」
「そう」シルヴィアはそれ以上何も言わず、歩き出した。「受け小屋から見せて」
書記が帳面を閉じ、アルノの横に並んだ。
「殿下は、塔守の名前を帳面にお書きになりました」書記は小声で言った。「王家の帳面に、辺境の塔守の名前が載るのは、初めてです」
アルノは書記の顔を見た。若い書記は、それきり黙って王女の後を追った。
* * *
王女は、何にも驚かなかった。
受け小屋では、ハンネが針の前で拍を読み上げるのを、横に立って最後まで聞いた。壺置き場では、二型の棚の間を歩き、一つの壺の肌に手のひらを当てて、中の光が指の骨を透かすのを見ていた。黒鉄尾根の麓の誘雷塔の下では、銅の引き下ろしの線を目でたどり、線が壺置き場まで届く距離を書記に書き取らせた。
問いは短かった。柱はあと何本。何日。一本立てるのに何人。銅はどこから。雷木はどこから。イルゼは帳簿も開かずに、一つずつ数で答えた。王女は頷きもせず、次の問いへ移った。
「王都の城壁の外まで、あと何本ですか」
「十九」イルゼが答えた。「王都側から組んでる分が、昨日までで十一。残りは、ブラウエンの兄上さんの区間」
「北風の十日には」
「間に合わせる」
「間に合わせる、と、間に合う、は違います」シルヴィアはイルゼを見た。「どちらです?」
イルゼの口の端が、ぴくりと動いた。
「……間に合う。あたしの帳簿じゃ、二十日余る」
「二十日」シルヴィアは書記の方を見もせずに言った。「書いておいて」
正午を過ぎた頃、南の空に雲が育ち始めた。
湖の上に白い塔のような雲が立ち、見る間に背を伸ばしていく。アルノは雲の方を一度見て、慌てて王女の方へ顔を戻した。膝の上で両手を組み、背筋を伸ばす。
「今日は、おとなしくしてろよ」イルゼが肘でつついた。「王女の前だ」
「はい! 今日は落ち着いてます!」
尾根の上が光った。
アルノは立ち上がっていた。立ち上がったことに、立ってから気づいた。王女を見る。尾根を見る。王女を見る。
「……あの、殿下、少しだけ——」
言い終わる前に、足が走り出していた。
「おいおい!」イルゼの声が背中を追ってきた。「坊ちゃん! 王女を置いてくな!」
湖の岸の岩へ駆け上がった。南の空の雲の底が、青く、白く、脈を打つように光っている。アルノは両腕を広げた。
「いち、に、さん、し、ご! ……来た!」
雷鳴が谷を渡ってきた。岩の上で、アルノは跳ねた。
背後で、衣擦れの音がした。
振り向くと、シルヴィアが岩を登ってきていた。雨除けの外套の裾を片手でたくし上げ、もう片方の手で岩の角を掴んでいる。岩の下では、護衛が槍を持ったまま右往左往し、書記が帳面を胸に抱えて青い顔をしていた。イルゼは岩の下で、額に手を当てていた。
「殿下! 危ないです、ここは——」
「あなたが立っている場所です」シルヴィアは岩の上に立ち、アルノの隣に並んだ。「危ないなら、下りなさい。危なくないなら、黙って」
アルノは黙った。王女の外套の裾が、湖から吹き上げる風で鳴っていた。
尾根の上に、太い一本が落ちた。
空を縦に裂いて、黒鉄尾根の一番高い穂先に、真っ白な柱が立った。一瞬、湖の面が端から端まで白く光り、岩の上の二人の影を後ろへ長く伸ばした。枝が分かれ、分かれた枝がさらに分かれて、尾根の斜面を網のように覆う。
「……今日のいちばん!」
叫んでから、アルノは口を押さえた。そっと隣を見る。
シルヴィアは尾根を見ていた。唇が小さく動いている。声は出ていない。けれど、形は分かった。いち、に、さん。
雷鳴が来た。岩が震えた。シルヴィアの唇が止まった。
「どうして数えるの」
王女は尾根から目を離さずに言った。アルノは膝の横で手を握った。
「……教わったんです」
誰に、とは言わなかった。シルヴィアも、訊かなかった。雨除けの外套の襟を立て、次の光を待っている。
次の一本が、尾根の手前の斜面に落ちた。シルヴィアの唇が、今度は声を出して動いた。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう。……十一」
雷鳴が岩を叩いた。王女はほんのわずかに肩をすくめた。
「……十一。近いのね」
「近いです!」アルノは岩の上で振り向いた。「すごく!」
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