第105話 壁の名前
番小屋の炉に、火が入っていた。
夏の夜に火は要らない。それでもボルクは薪をくべ、炉の前に座って、小刀を研いでいた。石に刃を当て、同じ角度で引く。三度引いて、刃を炉の火にかざす。また三度。
壁には、名前が並んでいる。十一年前、この峠で雷に打たれた部下たちの名前だった。小刀で刻んだ字が煤で黒ずみ、板の木目に沈んでいる。一番下の行の下に、板の地肌がまだ白く残っていた。
戸口に立ったアルノに、入れ、とも、帰れ、とも言われなかった。
ボルクは小刀を研ぎ終え、立ち上がって壁の前へ行った。一番下の行の下の、白い地肌に刃を当てる。一画目を引いた。木屑が炉の火の中へ落ちて、小さく爆ぜた。
ミ。ロ。シュ。
手は止まらなかった。十一年ぶりに刻む字だった。前の名前はどれも、雷に焼かれた者の名前だった。今度の名前は、雷のない夜に、人に殺された者の名前だった。
「ボルクさん」
「何だ」
「その壁の名前、十一年、一つも増えなかったんですよね」
「増やさなかった」ボルクは刃を止めずに言った。「増やさんために、一人でここにいた」
それから、刻み終わるまで、どちらも何も言わなかった。
最後の一画を引き終えると、ボルクは刃についた木屑を親指で払い、字の溝に炉の灰を擦り込んだ。白い地肌の上で、三つの文字だけが、上の名前たちと同じ色に沈んだ。
* * *
翌日の昼、アダルベルトが峠を上がってきた。
後ろに、女が二人いた。母親と、ハンネより二つ三つ上の娘だった。二人とも伯の村の麦わらの帽子をかぶり、手に何も持っていなかった。
番小屋の前で待っていたアルノは、女が近づいてくると、頭を下げた。深く、長く。
「ミロシュさんを、塔守にしたのは私です」
女は黙ったままだった。下げられた頭の、焦げた痕の残る髪を見ていた。それから番小屋の戸口を見た。
「中に、入ってもいいですか」
「……はい」
女は小屋の中へ入り、壁の前に立った。一番下の、まだ白い新しい一行。手を上げて、その字に触れる。指で一画ずつなぞる。娘がその後ろで、帽子の縁を両手で握りしめていた。
ボルクは炉の脇で、腕を組んで立っていた。女がなぞり終えると、低く言った。
「最後まで、峠に知らせた」
女は頷いた。壁から手を離しかけて、もう一度だけ、最後の字に指を置いた。
「あの子、字が書けなかったんです。村にいた頃は」
「符号は、ハンネが教えました」アルノは言った。「ミロシュさんは、峠でいちばん丁寧に打つ人でした。間を、いつも長く取って」
「……そうですか」
女はそれだけ言って、娘の肩を抱き、小屋を出ていった。
アダルベルトは外で待っていた。女と娘を先に坂の下へ行かせてから、アルノの前に立った。
「伯は、このことを知ってる」アダルベルトは言った。「伯のやり方じゃない。伯は、村の者の息子を夜に殺したりはしない」
「知ってます。ミロシュさんも、そう言ってました」
「組合だろう」
「……はい」
アダルベルトは長いこと、丘の方を見ていた。焼け落ちた塔の跡が、夏の陽の下で黒い点になっていた。
「あの子の母親は、村に残ると言っている。息子の見えた丘の見える家だからと」アダルベルトは帽子をかぶり直した。「来年、麦が焼けたら、その時に考える。……前にも、そう言ったな」
「言いました」
「今年は、麦は焼けてない」アダルベルトは坂を下り始めた。「焼けたのは、別のものだ」
* * *
夕方、アルノは番小屋の卓で天気帳を開いた。
去年の秋の頁があった。伯と戦った日の三日後に、寝台の上で書いた名前の列。数を書かずに、一人ずつ書いた。その一番上の行に、峠の見張りの若い者の名前がある。脚に矢傷、と横に書いてある。
その行の横に、今日の日付を書いた。それから、ミロシュ、と書いた。
去年の頁の名前は、全員生きていた。この帳面に書いた名前が死んだのは、初めてだった。
ペンを置いた。左手の二本の指が頁の端を押さえているのに、何も感じなかった。
「ボルクさん」
ボルクは炉の前に戻って、火を見ていた。
「決まりを、作ります」アルノは言った。「塔は全部、二人番にします。夜は、一人は必ず起きてます。何かが来たら、二人とも退き口を使います。一人も、残りません」
「知らせは」
「知らせは、一文字でいいです。シュウゲキの、シだけで。それで峠は分かります。数は、後から数えます」
ボルクは頷かなかった。首を横にも振らなかった。
「退き口を使わなかった者は」アルノは続けた。「……叱ります。ボルクさんが。私も」
炉の火が爆ぜた。
「死んだ者は、叱れん」
ボルクは低く言った。アルノは何も言えなかった。雷が落ちても、人の死なない谷にしたかった。雷の落ちない夜に、塔の下で一人死んだ。
ボルクは小刀を卓の上に置き、壁の方を向いた。炉の火に照らされた名前の列の、一番下の、まだ白い新しい一行を見ている。背中が動かなかった。
天気帳を閉じて、アルノは戸口まで下がった。そこで足を止め、壁の前に立ったままのボルクの背中を、黙って見ていた。
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