第5話 - 無謀な取引
大輝の背後から、凛とした声が響く。振り返るといつの間に入ってきたのか、扉の前に天音の姿があった。
天音はいつになく真剣な顔で有馬を睨んでいる。
「羽生、さん……」
天音はつかつかと歩き、座っている大輝の隣に立つ。
「佐藤くんには部活もあるのに、学校と関係ないことで呼び出して……。私に言っても聞かないと思ったんだろうけど、だからって佐藤くんを脅すのは卑怯だよ」
「悪魔は卑怯な生き物ですよ、お嬢様」
「私が誰とつき合っても、将くんには関係ないでしょ」
「ありますよ。あなたの伴侶となる方は、私の主も同然ですから」
「将くん」という呼び名に大輝が嫉妬している間に、二人は激しくも静かな口論を繰り広げる。怒っている天音を初めて見たが、思いのほか迫力があって怖い。
しかし天音の指摘を有馬はのらりくらりと躱し、平行線のまま決着がつきそうにない。
しびれを切らしたのか、有馬が視線を天音から大輝に移した。
「佐藤さん、あなたから別れを告げていただけますか?」
「だから、佐藤くんじゃなくて私に……」
「別れていただけないのなら、あなたが中学生のころのことを、お嬢様に話してしまうかもしれません」
瞬間、大輝の背筋が凍り付く。
中学生……それは大輝が、悪い意味で“平凡”ではなかった時代。普通になるために、くしゃくしゃにして捨てた過去だ。
(なんで、有馬先生が知ってるんだ?)
そう思ってから、別に不思議なことではないと気づく。大輝が中学生のときに関わった人間に聞けば、すぐにでもわかることだ。
大輝の沈黙を了承と受け取ったのだろう。有馬はにこやかに視線を天音に戻す。
「そういうわけですから、お嬢様。お遊びはこのくらいに……」
「平凡じゃなくなればいいんですか?」
強く遮る大輝の声に、有馬の眉がぴくりと跳ねる。大輝はガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、まっすぐに有馬を睨む。
「先生は『あなたのように平凡な方では』って言いましたよね。なら平凡じゃなくなれば、羽生さんとの交際を認めていただけますか?」
大輝と有馬の視線がぶつかる。強い思いを秘めた瞳は、互いに一歩も引く気がないことが見て取れる。
やがて、折れたのは有馬の方だった。
「いいでしょう。来月の中間テストで、全科目九十点以上取ってください。そしたら、私はお二人の関係に口出ししないことにします」
「ありがとうございます」
「佐藤くん……!」
天音が大輝の袖をぎゅっとつかむ。初のスキンシップだというのに、こんな場面ではまったく喜べない。
「交渉なんてしなくていいのに……! 将くんなんて、いつでも潰せるんだから!」
(物騒だな)
大人しそうな天音の意外な一面に驚きながら、大輝は天音に微笑みかける。
「心配してくれてありがと。でも、オレが認めてもらいたいんだ。胸を張って、オレが羽生さんの彼氏だって言えるように」
「でも……!」
天音は何か言いかけるが、こらえるようにぐっと口を引き結ぶ。
「……わかったよ。でも無理しないでね。何かあったらすぐに言ってね。私に手伝えることならなんでもするから」
「うん。ありがと」
天音は有馬に視線を移し、ぐっと眉間にしわを寄せる。
「将くん、点を取らせないためにテストを難しくするとかやめてね。したら解雇するから」
「解……!?」
涼しい顔をしていた有馬が、目に見えて動揺する。よほど困るのだろう。
有馬はごまかすように咳払いをして、眼鏡を押し上げる。
「しませんよ、そんなこと。勝負はフェアでなくてはいけませんからね」
(する気だったんだな……)
大輝と天音は有馬に一礼して、生徒指導室を後にする。大輝ははーっと息を吐き、その場にしゃがみ込む。
(受けちゃった……。九十点以上とか、小学校以来取ったことないのに……)
「佐藤くん……! ごめんね、うちの人が……」
「あー、大丈夫大丈夫。親からも勉強しろって言われてるし、いい機会だよ」
(嘘だけど……言われたことないけど……)
大輝は立ち上がり、再び深呼吸する。まったく自信はないが、受けてしまったものは仕方がない。
こうして、大輝の猛勉強の日々が幕を開けたのだった。




