第55話 - 変わりたい
再び家に帰り、天音は有馬に「この人にお礼がしたい」と学生証を見せた。本当は持って帰ってきてはいけなかったのだろうが、天音はどうしても彼のことが知りたかったのだ。有馬は何も聞かずに承諾した。
数日して、有馬から「調査が終わった」と報告を受けた。期待する天音と対照的に、タブレットを睨む有馬は険しい顔をしていた。
「……お嬢様、彼には本当に助けられただけですか?」
天音は首をかしげる。天音のせいで彼が傷を負った……という話かと思ったが、傷の話をしても有馬の表情は変わらなかった。
「お嬢様がこの少年に何かされたわけではないのですね?」
なぜか念入りにそう確認された。天音は何度もうなずいた。“普通”なら不安になるのかもしれないが、家の中の天音は“普通”ではない。ただの“羽生 天音”の頭では、何が問題なのか全くわからなかった。
有馬は釈然としない様子で口を開く。
「名前は佐藤 大輝。東中学校の二年生です。家庭環境は標準より少し低い水準と予想され、学校でも……あまり素行がよくないようです」
有馬は言葉を濁したが、要は「彼は不良だ」ということだ。天音もそれは予想できていた。
有馬はタブレットから視線を上げ、心配そうに天音を見る。
「助けてもらった方にお礼がしたいという気持ちは理解できます。しかし、彼に関わるのは少々危ないかと……」
こうなった有馬は、絶対に天音を少年の元に連れて行かない。住所も教えてくれないだろう。どうしたものかと天音は思う。
(諦める……しかないのかな)
有馬から返された学生証を握りしめ、天音は肩を落とす。学生証にも住所はなかった。
東中学校に行くという手はある。しかし“普通”の人は、不良と知りながら少年に会いには行かないだろう。
結局天音はまた、“普通”であることを選んだ。
(……悔しい)
淡い水色のベッドの上で、天音は膝を抱えて涙を流す。血を流す少年の姿が、ずっと頭から離れなかった。
東中に会いに行けばよかった。有馬の反対を押し切って住所を聞き出せばよかった。その場でお礼を言えばよかった。悪魔の力で少年を助ければよかった。最初から悪魔の力で青年たちを追い払えばよかった。
ああしていれば、こうしていれば。もう戻らない過去のことばかり考えてしまう。東中学校に行くことくらい今からでもできるのに、その一歩が怖くて踏み出せなかった。
その日はずっと泣いていた。翌朝、腫れた目を家族に心配されるくらいに。それでも、天音が行動することはなかった。
月日が流れ、天音は三年生になり、志望校を決める時期になった。進路希望表に無難な高校を書こうとしたとき、ふとあの学生証が目に入った。それはあの日のことを忘れないために、届けもせず机に置いていたものだ。
(このまま、一生“普通”に生きていくのかな)
天音はあの日のことを思い出す。天音を助けた少年は“普通”ではなかった。もしあの場に“普通”の人しかいなかったら、天音はどうなっていたのだろうか。
(……変わりたい)
天音は学力で高校を選ぶのをやめた。校則に髪色の指定がないところを探し、その中で最も偏差値が高いところを志望校に選んだ。
「なぜそんなレベルの低いところを……!」
有馬は絶句した。担任にも反対された。それでも天音は意志を曲げなかった。
「本当の私でいられるところがいい」
髪を隠さず、眼鏡を外し、周りと発言や行動を合わせず、自分の価値観を大切にする。そうしたら、天音は自分が浮いてしまうことより、少年を助けることを優先する自分になれる気がした。
そして迎えた高校生活は、これまでより大変だった。やはり目立つ容姿は、心ないことを言われる材料になった。しかし代わりに、結衣というかけがえのない友人に出会った。他のクラスメイトも、次第に天音を受け入れるようになった。
そして二年生に上がり、天音は運命的な出会いをした。
(佐藤、さん)
一目で大輝だとわかった。髪型も雰囲気も違うが、顔も声も間違いなくあのときの少年だ。
(今度こそお礼に……でも、今の私を見てあのときの人だってわかるかな)
まったく自信がなかった。天音ですら、中学校の卒業アルバムから自分を見つけられなくなったというのに。
それに大輝も不良でなくなっていた。“普通”の、喧嘩をしていたとは思えない少年に見える。
(蒸し返さない方がいい……よね)
結局天音は、何も言わないことを選択した。学生証を返す機会も失い、そのうちシュレッダーにかけなければと思っていたとき……
「羽生 天音さん、好きです! つき合ってください!!」
声をかけてきたのは大輝の方だった。
信じられなかった。天音があのときの中学生だとは気づいていなさそうだが、それでも、大輝の方から天音を見つけてくれた。
舞い上がる心を抑えるために、「どうして、私が好きなの?」と聞いた。まさかその発言から悪魔に繋がるとは……そして大輝が悪魔を受け入れてくれるとは、思ってもみなかった。
つき合い始めたのは、贖罪の気持ちからだった。何もできなかったあのころの代わりに、大輝の希望に応えようと思った。大輝が満足するまでつき合って……別れを告げられても、受け入れようと思った。
それなのに、日を追うごとに大輝の存在が大きくなっていった。だんだんと天音の方が、大輝に執着していった。
エクソシストが来たとき、本当は別れるのが正解だとわかっていた。また大輝を巻き込み、怪我をさせてしまうかもしれないのだから。
けれど、別れられなかった。別れたくなかった。気づいたときには贖罪ではなく、ちゃんと彼女になりたいと思っていた。
「だって、私は……」




