第20話 - 洒落にならない落とし物
三組目も走り終わり、最後の走者がレーンに並ぶ。合図とともに彼らが一斉に走り出した……そのときだった。
ごおっと強い風が吹き、砂埃が舞い上がる。風向きのせいで、大輝たちはもろにその砂を被った。
(うわっ!)
咄嗟に腕で目を覆うが、間に合わなかったようだ。目にわずかな痛みを感じ、大輝はまばたきを繰り返す。
(目に入ったぁ~。戻ったら目洗うか……)
そう思いながら、大輝は無意識に左目をこする。そして目を開けたとき……大輝の左目の視界は、物がわからないほどにぼやけていた。
「…………あ」
(コンタクト落とした)
そう気づいた途端、大輝からさーっと血の気が引く。
(やばいやばいやばいやばい! やばい!!)
大輝は左目を押さえて足元を見る。くっきり見えている右目はコンタクトレンズが入っているようだが、目を凝らしても落としたレンズは見つからない。
背中に嫌な汗が伝う。大輝の「コンタクト落とした」は、洒落にならないのだ。特に、左目は。
(落ち着け落ち着け……予備が鞄に入ってるから大丈夫だ。鞄は……教室か。うわっ、階段上れるかな……)
大輝の次の出番はかなり先だ。取りに行ったからといって、クラスに迷惑をかけることはない。落としたレンズのことは諦め、大輝は予備を取りに行くことに決める。
大輝が慌てている間に、どうやら競技が終わったらしい。全く勝負を見ていなかったが、総合順位は二位だった。
大輝はクラスメイトに続いてベンチに向かう。片目を隠していると距離感がつかみにくく、不安になってくる。
なんとかベンチにたどり着くと、クラスメイトたちも異変を感じたようで声をかけてくれた。
「コンタクト落としてさ……。教室に予備あるし、取ってくるよ」
そう言うと、ほとんどの生徒は納得した様子で持ち場に戻る。事の深刻さに気づいたのは、自分と大輝の席を使って寝ころんでいた翔太だけだった。
翔太はむくりと起き上がり、早足で大輝に近づく。
「階段危ないだろ。ついてこうか?」
「いや、大丈夫。右は見えてるし。つかお前、次出番じゃん」
「困ってる親友を放っておけないからさ」
「出たくないだけだろ」
翔太が本当に出たくないだけだったとしても、ついてきてもらった方がいいことは大輝もわかっている。何せコンタクトレンズのない大輝の左目は、ちょっとぼやけているどころではない。物があることはなんとなくわかるレベルなのだ。
左目を隠さないと、左右の視力差で体調が悪くなる。左目を隠すと、距離感がつかめず階段を踏み外す。どちらを取っても危険なことに変わりはない。
「佐藤くん、どうしたの?」
異変を察したのか、天音が心配そうに駆け寄ってくる。このかっこ悪い状態を天音に知られたくなく、大輝はごまかすようにヘラヘラと笑う。
「コンタクト落としちゃってさー。教室に予備取りに行って……」
「羽生さん、一緒に行ってやってくれる? 本当に危ないから」
翔太が真面目なトーンで大輝の言葉を遮る。冗談ではないと理解したのか、天音は迷いなく「うん」とうなずく。
「わかった。佐藤くん、歩ける?」
「歩ける歩ける。大丈夫だから。一人で行けるって。翔太はちょっと大げさ……」
「だめ!」
天音の強い声に、大輝は驚いて目を見開く。こんなに声を張る天音を見たのは、有馬に呼び出されたとき以来だ。
天音は大輝の右手を、両手でぎゅっと握りしめる。
「無理しないで。佐藤くん今、すごく不安そうな顔してる」
「え……」
そんな意識は大輝にはなかった。しかし言われてみれば、大輝の心の中には不安が大きく渦巻いている。
だが、それは大輝自身のことだけが原因ではない。「今襲われたら天音を守れない」という思いがあるのだ。
(今、教室の中は人気がない。羽生さんと一緒に行って、ノエに襲われたら……)
大輝はちらりとノエを見る。彼は女子生徒たちと話しながら、体育祭を満喫しているようだ。
このまま、天音が教室に行ったことに気づかなければいい。しかし大輝には、ノエの意識が天音から完全に離れているとは思えなかった。
「やっぱり一人で……」
「有馬先生!」
天音が大輝の言葉を遮り、少し離れたところにいる有馬を呼ぶ。「将くん」ではないのは、周囲の目を気にしてのことだろう。
有馬は他の先生と次の競技の準備をしていたようだが、すぐに天音の元に走ってくる。有馬を待っている間も、天音は大輝の手を放さなかった。
「佐藤くんがコンタクトを落としてしまったんです。予備が教室にあるそうなので、一緒に取りに行ってもいいですか?」
一見普通に聞こえるその言葉に、有馬の目つきが変わる。教室に行く天音を心配している……だけではなく、大輝のことも気にしているように見える。もしかしたら有馬は、大輝の視力のことを知っているのかもしれない。
「……わかりました。私はここにいますので、何かあれば職員室の先生を頼ってください」
(先生がノエを見張っててくれるってことか……。で、もし先生が目を離した隙にノエがこっちに来たら、人がいる職員室に行けと)
そう解釈した大輝の心を読んだかのように、有馬はうなずく。天音も同じように受け取ったのか、少し硬い声で「はい」と返事をする。
天音は大輝に寄り添うように、手を引いて歩きはじめる。大輝は情けなく思いながらも、つないだ手の温かさに安心感を覚えた。




