第9話「免罪符の終わり、迫るタイムリミット」
二〇二六年、冬。
アプリ『Re-Start』に登録し、三ヶ月限定の『逆療法リハビリ』を始めてから、間もなく一ヶ月が経とうとしていた。
一週間の激務を終えた金曜日の、深夜二十四時。
しんと冷え切った自室のソファに深く身体を沈め、私は手の中にあるスマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。
暖房の手入れを怠っているせいで、古いエアコンからはカタカタと無機質な稼働音だけが虚しく響いている。
いつもなら、この時間には長谷川さんとの日常LINEのラリーも綺麗に終わっているはずだった。
私は温まったマグカップをテーブルに置き、過去のトーク履歴を一番上までスクロールした。
そこに並ぶのは、私の拙くて重い行動報告を、何倍もの温かさで包み込んでくれる長谷川さんの丁寧な言葉たちだ。
私の指先が冷えていることに気づいてくれたホテルのラウンジ。
私の左利きに気づいて、さりげなくフォークの位置を直してくれた神楽坂のレストラン。
思い出をなぞるだけで、胸の奥がじんわりと熱くなり、同時に息苦しいほどの切なさが込み上げてくる。
(でも、勘違いしちゃダメよ、紡。これはアプリの『一ヶ月目基本リハビリプラン』の縛りがあるから、彼は完璧に付き合ってくれているだけなんだから)
私は三十四歳の冷めた理性を必死に呼び起こし、自分自身の心に冷たいブレーキをかけた。
普通の恋愛市場なら、相手を甘やかしすぎてダメにする悪癖と言われた彼の優しさ。
そして、相手に無理をさせて引かれる原因になる私の遠慮。
お互いに傷を負った練習相手として、ビジネスライクに割り切っているからこそ、この関係は成立しているのだと、自分に強く言い聞かせた。
◇
同じ夜、静まり返った設計事務所の明かりの下で、長谷川律もまた、椎名さんから今週届いたメッセージの一覧を眺めていた。
デスクの上に広げられた図面には全く手がついておらず、シャープペンの芯が出たまま静かに置かれている。
画面越しに伝わってくる、彼女のどこまでも誠実な行動報告。
一年前、元妻の無断外泊や、どこで誰と何をしているか分からない嘘の日々に心を深く病んだ律にとって、その一途さは何よりも欲しかった救いだった。
(重いなんて、とんでもない。椎名さんは僕を不安にさせないために、こんなにマメに連絡をくれる。なんて素晴らしい女性なんだろう)
律は内心で爆発的な愛おしさを感じながらも、同時に強い自責の念に駆られていた。
(落ち着くんだ、律。僕は彼女のトラウマを癒やすための、ただの『壁役』に過ぎない。調子に乗って過剰に尽くせば、また相手の自立を奪う毒になる。ビジネスとしての立場を忘れるな)
これ以上、僕の歪んだ優しさで彼女を不幸にしたくはない。
お互いに、これはただの契約関係。そう強く自分を律しながら、二人はそれぞれの孤独の中で、明けない夜を過ごしていた。
◇
翌、土曜日。
本来なら、アプリが指定する「対面デート」の義務がない、空白の週末が訪れた。
アプリの日常課題は「平日の連絡」と「指定日のデート」だけ。
つまり、この土日に関しては、お互いに連絡を取り合う『正当な理由(免罪符)』が一切存在しない。
その事実が、私をかつてないほど激しい葛藤の渦へと突き落としていた。
お昼過ぎ、リビングのローテーブルの前に座り込み、私はスマートフォンの文字入力画面を開いては消す作業を、もう一時間も繰り返していた。
『長谷川さん、お疲れ様です。今週末は予定がないですが、何をして過ごされていますか?』
……ダメ。こんなの、相手のプライベートを詮索しているみたいで、監視されているようで絶対に重い。
『もしよければ、明日、少しだけでもお茶を』
……これもダメ。相手の時間を無理やり奪おうとするなんて、迷惑に決まっているわ。
脳内の検閲官が、かつてないほど容赦のない警告音を鳴り響かせる。
長谷川さんの声が聞きたい、あの優しい焦げ茶色の目で見つめられたいという、私の一途さ(重さ)が暴走しそうになるのを、必死に指先を噛んで堪えた。
境界線が分からない。免罪符を失った瞬間、私はまた、あの婚約破棄の夜の臆病な迷子へと逆戻りしてしまっていた。
一方、律もまた、静まり返った自室のベッドの上で、スマートフォンを握りしめたまま意味もなく部屋の中を歩き回っていた。
椎名さんの週末を邪魔してはいけない。僕の過剰な『尽くし癖』で彼女のプライベートを縛ってはいけない。
本当は、彼女が今何をしていて、美味しいものを食べているか、体調を崩していないか、心配でたまらないのに。
一歩引く、という自戒のブレーキを強く踏み込みながら、律はただ、渇いた音を立てて画面をタップし、届くはずのない通知を待ち続けていた。
◇
日曜日の、夜二十一時。
お互いに一通のメッセージも送れぬまま、もどかしくて息が詰まるような週末が終わろうとした、その瞬間だった。
――チカリン。
部屋の静寂を破り、二人のスマートフォンが同時に、鋭いバイブレーションを響かせた。
飛び起きるようにして画面を開くと、そこにはアプリ『Re-Start』の運営からの、一つの無機質な通知がポップアップしていた。
【第一期(一ヶ月目)基本リハビリプランが間もなく満了します。双方のトラウマ指数の劇的な改善に伴い、次週より【第二期(二ヶ月目):心理的・物理的境界線の開放プラン】へと強制移行します】
画面をスクロールした瞬間、私はあまりの衝撃に、息をすることすら忘れてしまった。
そこには、次週から始まる新たなリハビリ課題として、これまでの私たちの防衛線をすべて木っ端微塵に打ち砕くような、恐ろしい文字が並んでいたのだ。
【第二期(二ヶ月目)新課題一覧】
①日常および対面における【敬語の使用を一切禁止(タメ口の解禁)】
②お互いのパーソナルスペース(自宅)の共有
「敬語、禁止……? 長谷川さんに、タメ口で話すの……?」
私はスマートフォンの前で、完全にフリーズした。
三十代半ばの、分別のある大人にとって、社会人としての仮面(敬語)を剥ぎ取られることが、どれほど恐ろしいことか。
同じ頃、律もまた、自室のデスクで画面を見つめたまま絶句していた。
「パーソナルスペースの共有……。まさか、お互いの家に行く、ということか……?」
相手をダメにしないために一歩引く、と決めた自分の聖域に、彼女を招き入れ、あるいは彼女の部屋を訪れる。
一ヶ月間の『免罪符』が終わる恐怖と、それを遥かに超える次章の過激な課題への動揺。
私たちはそれぞれの部屋で、ただ息を呑み、白く発光するスマートフォンの画面を見つめたまま、ガチガチに固まっていた。
二ヶ月目の扉が、すぐ目の前で、音を立てて開こうとしていた。




