第10話「初めての『タメ口』、五文字の震え」
二〇二六年、冬。
月曜日の朝、スマートフォンの画面を開いた瞬間、私は自分の目を疑いたくなった。
アプリ『Re-Start』のホーム画面中央に、昨日まではなかった血のような赤色のバナーが灯っている。
【第二期プラン適用中:日常および対面における敬語の使用を一切禁止します】
出勤途中の満員電車に揺られながら、私の脳内の検閲官はすでに、かつてないほどのパニックを引き起こしていた。
三十四歳。社会に出て、それなりのキャリアを積んできた大人の女性にとって、「敬語」とは単なる言葉遣いではない。それは相手を不快にさせず、自分の身を守るための、最も頑丈で便利な『盾』だった。
それを強制的に剥ぎ取られた今、私はまるで、全裸のままむき出しの戦場に放り出されたような恐ろしい錯覚に陥っていた。
(どうしよう……。長谷川さんにタメ口なんて、偉そうだとか図々しいって思われるに決まってるわ。嫌われたくないのに、どうしてこんな酷な課題を出すの……!)
吊り革を握る指先が、緊張で冷たくなっていくのが分かった。
◇
同じ頃、設計事務所のデスクでコーヒーを片手に画面を見つめていた長谷川律もまた、絶望的なまでのプレッシャーと戦っていた。
彼にとって、「〜ですね」「〜ですよ」という丁寧な語尾は、自分の過剰な尽くし癖をセーブするための命綱だった。
敬語というフィルターを通すからこそ、彼は「一歩引いた冷淡な紳士」を演じることができていたのだ。
(語尾を崩すということは、僕のこの『歪んだ本性』が、何の遮るものもなく直接彼女の領域に侵入してしまうということだ。僕の言葉が、彼女への過剰な束縛や威圧感になってしまったらどうする……)
律は頭を抱え、デスクの上で深く、深い溜息を吐き出した。
傷つかないために、そして相手を不幸にしないために、私たちが一ヶ月間かけて築き上げてきた完璧な防衛壁。
それが、アプリの無機質なシステムの手によって、無慈悲にも内側から崩壊させられようとしていた。
◇
ハプニングは、その日の夜二十時に訪れた。
仕事が終わり、いつものように駅の改札前にたどり着いた私は、スマートフォンの前で完全に身動きが取れなくなっていた。
いつもなら流れるように打てていた、日常の行動報告。
『長谷川さん、お疲れ様です。今、仕事が終わりました。これから電車に乗って帰ります』
これまでの私を救ってくれていたこの事務的な文面が、今は一文字も許されない。
文字入力画面を開いたまま、私の指先はもう三十分以上も、画面の上で迷子のように震えていた。
『今、仕事が終わったよ。これから、電車に乗って帰るね』
……ダメ。画面に打ち込まれたその文字を見つめるだけで、心臓が痛いほど早鐘を打ち鳴らす。
(なんなの、この馴れ馴れしい文章は。義務だからって急にこんな距離の詰め方をしたら、長谷川さんに嫌われる。うっとうしい、馴れ馴れしいって思われるに決まっているわ……!)
一年前の元彼に「重い、息が詰まる」と切り捨てられた記憶が、津波のように押し寄せて私をすくませる。文字を書いては消し、消しては書き直すうちに、冷や汗が背中を伝った。
けれど、私を動かしたのは、やっぱりアプリの絶対のルール――『敬語禁止』という強制的な免罪符だった。
私は逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、半分目を瞑るようにして、送信ボタンを押し込んだ。
『今、仕事が終わったよ。これから、電車に乗って帰るね』
送ってしまった。
あまりの恥ずかしさと恐怖で、私はスマートフォンをバッグの奥底へと叩き込み、耳まで真っ赤にしながら逃げるように改札をくぐった。
◇
その頃、自宅のリビングのソファで、律はスマートフォンを握り締めたまま絶句していた。
画面に表示された、紡さんからの初めてのタメ口。
『今、仕事が終わったよ。これから、電車に乗って帰るね』
脳内を、彼女のあの少し不安げで、けれど鈴のように綺麗な声が、敬語を外した柔らかい響きとなって何度もリフレインする。
「〜帰るね」という、わずか五文字の震えるような優しさに、律の心臓は爆発しそうなほど激しく跳ね上がった。
(なんて、破壊力だ……。いや、落ち着け、律。椎名さんはアプリのルールを必死に守って、これほどまでの勇気を出して僕に送ってくれたんだ。ここで僕が敬語を崩さなければ、彼女の誠実さを否定して、彼女を一人きりの暗闇で傷つけることになる!)
三十五歳の中堅建築士が、一通のメッセージの返信に、まるで十代の少年のように本気で思い悩んでいる。
けれど、彼は誰よりも一途な愛を求め、目の前の人の痛みを放っておけない優しさMAXの聖人だった。
彼女を一人で不安にさせてはいけない。その圧倒的な行動原理が、脳内のすべてのブレーキを引きちぎった。
律は持てる限りの穏やかさと温かさを文字に込めて、震える指で返信を送った。
◇
自宅のベッドに飛び込み、枕に顔を埋めていた私は、スマートフォンの短いバイブレーションに弾かれたように顔を上げた。
恐る恐る画面を開き、そこに並んだ文字を目にした瞬間、カッと全身の血が逆流するような熱さを覚えた。
『今日もお疲れ様。夜は冷えるから、気をつけて帰ってね。無事に着くのを待ってる』
画面の上に並んだ、お互いの、敬語のない生身の言葉。
「待ってる」という彼の言葉が、耳の奥で甘い熱を持ってとろけていく。
社会人としての鉄壁の仮面が剥がされ、私たちはついに、むき出しの『素顔』で繋がり始めてしまったのだ。
ビジネスライクなリハビリのはずだった。
マイナス百点から始まった、ただの割り切った練習。
けれど、文字の上で始まった初めての『タメ口』の甘い衝撃に、私たちはそれぞれの部屋の中で、同時に激しく、狂おしいほどに心臓を打ち鳴らしていた。




