第11話「踏み込む境界、白線の向こう側」
二〇二六年、冬。
文字の上での『タメ口』リハビリが始まってから、数日が経過していた。
最初は一通送るだけで心臓が破裂しそうになっていたのに、一週間の後半を迎える頃には、不思議な変化が訪れていた。
毎晩、二十時ぴったりに届く長谷川さんからのメッセージ。
『今日もお疲れ様。無事に着いたみたいで安心した』
『明日も仕事、無理しないで頑張ってね。応援してる』
敬語という冷たいフィルターを外された、彼の真っ直ぐで温かい言葉たち。それらがスマホの画面に灯るたび、私の脳内の検閲官は、まるで春の陽気に当てられた雪のように、跡形もなく融解していった。
これまでの人生で、こんなにも一秒の狂いもなく私を気遣ってくれ、私の言葉を全肯定してくれた人はいなかった。
あぁ、心地いいな。このまま、ずっとこの優しいラリーに溺れていたい。
そう思った、まさにその瞬間だった。
――チカリン。
不意に鳴り響いたアプリ『Re-Start』の専用通知音が、甘い余韻に浸りかけていた私の意識を現実へと引き戻した。
恐る恐る開いた画面には、運営からの次なる強制指示が、冷徹な青い文字で刻まれていた。
【第二期リハビリ・第二課題へ移行します】
【課題:パーソナルスペース(自宅)の共有】
【内容:今週末、双方のどちらかの自宅にて、三時間以上の対面リハビリを行ってください。社会人としての境界線を外し、より深い本音の開示を目指してください】
通知を読み進めるうちに、私の指先はみるみるうちに血の気を失っていった。
パーソナルスペースの共有。どちらかの、自宅。
それは、三十代半ばの男女にとって、ただの連絡やカフェでの食事とは次元の違う、最もプライベートな聖域へと踏み込むことを意味していた。
◇
(どうしよう……。自宅なんて、ハードルが高すぎる……!)
木曜日の夜、私はベッドの上でスマートフォンを握りしめたまま、激しい自己検閲の泥沼に囚われていた。
私の部屋に長谷川さんを呼ぶ?
(ダメよ。そんなの『男を部屋に連れ込む重い女』って思われるに決まってる。一年前、元彼に部屋の模様替えの相談をしただけで『重い、結婚を迫られてるみたいで息が詰まる』って辟易されたじゃない)
じゃあ、長谷川さんの部屋に行きたい、と私から言うの?
(それだって厚かましすぎるわ。相手のプライベートな空間を荒らすような真似、迷惑に決まっているのに)
文字入力画面を開いては、書いては消し、消しては書き直す。境界線を失った私は、またしてもスマホの前で完全な迷子になっていた。
同じ頃、律もまた、静まり返った自室の書斎で、頭を抱えて激しく動揺していた。
彼にとって、この1LDKのマンションは、元妻の裏切りから逃れ、自分の『毒(過剰な尽くし)』を誰にも振り撒かないように自分を閉じ込めてきた、頑丈な自刑の檻だった。
そこに、椎名さんを招き入れる。あるいは、彼女の部屋へ行く。
(ダメだ。彼女の部屋に行くなんて、男としてあまりに不躾だし、恐怖心を与えてしまう。けれど、僕のこの偏執的な部屋に彼女を呼ぶのも、過剰なプレッシャーをかけることになるんじゃないか……?)
どうすれば彼女が傷つかないか。どうすれば彼女の負担を最小限にできるか。
優しさMAXの行動原理が脳内で高速空回りし、律の思考はパンク寸前だった。
けれど、画面の向こうで、紡が今この瞬間も怯えながら悩んでいるのだと気づいた時、彼のブレーキはまたしてもあっさりと引きちぎられた。
律は深く息を吐き、彼女の負担をすべて自分が背負うためのメッセージを、覚悟を決めて打ち込んだ。
『紡さん。もし紡さえよければ、今週末、僕の部屋に来ない? アプリの義務だから無理はしてほしくないけれど、僕の部屋ならいつでも片付いているから。紡が僕の家に来る方が、少しは気楽かなって思ったんだ。どうかな』
◇
画面に届いた、長谷川さんからのメッセージ。
どこまでも紳士的で、私の不安を先回りして取り除いてくれる、優しいタメ口。
「あ……」
私の家に来てください、と言わせる負担すら、彼はすべて自分で引き受けてくれたのだ。
私は胸の奥を激しい愛おしさで満たされながら、震える指で『うん、行く。ありがとう』とだけ返信した。
そして、日曜日。
雲一つない冬の午前中。私は長谷川さんから送られてきた住所を頼りに、恵比寿の閑静な住宅街にあるマンションの前に立っていた。
オートロックを抜け、エレベーターで彼の住む階へと上がる。
内廊下に敷かれた絨毯が、私の足音を不気味なほど静かに吸い込んでいく。
目的のドアの前に立ち、インターホンの黒いボタンを見つめた瞬間、私の心臓は衣服の上からでも視認できるのではないかと思うほど、激しく、狂ったように脈打ち始めた。
一方、ドアのすぐ向こう側で、律もまた、張り詰めた沈黙の中で立ち尽くしていた。
部屋の温度は彼女が寒がらないように完璧に調整した。
彼女がリラックスできるよう、カフェインレスのハーブティーの用意もできている。
これまでの彼なら、ドアが開いた瞬間に彼女のコートをスマートに受け取り、スリッパを差し出すための完璧な動線を整えていただろう。
けれど、律は玄関マットの上で、自分の両手をぎゅっと握り締めていた。
(これ以上は尽くしすぎるな。彼女の自立を奪うな。僕はただの、ビジネスライクなリハビリの壁役なんだ)
必死に理性のブレーキを踏み込み、本性の暴走を抑え込もうとする。
ピンポーン、と静かな廊下にインターホンの音が鳴り響いた。
アプリの義務(免罪符)という名の白線を越えて、一人の男性の、最も深い聖域へと足を踏み入れる瞬間。
三十代半ばの、臆病で、優しすぎる二人の。
大人の理性の防衛線が物理的に崩壊する直前の、息が詰まるような沈黙の中で、私たちはそっと、運命のドアノブへと手を伸ばした。




