第12話「聖域のスープ、優しい嘘の溶ける場所」
カチャリ、と静かな電子音が鳴り、目の前の重いドアがゆっくりと内側へ向かって開いた。
「いらっしゃい、紡さん。……外、寒かったでしょ。さあ、中に入って」
迎えてくれた長谷川さんは、どこまでも丁寧で、驚くほど柔らかいタメ口を私に向けてくれた。
緊張で全身をガチガチにこわばらせながら、私は促されるままに彼のパーソナルスペースへと一歩を踏み出した。
初めて足を踏み入れた彼の部屋は、三十五歳の独身男性の住まいとしては異常なほどに整えられていた。
塵一つ落ちていないフローリング、完璧な室温に調整された空気。壁際の本棚には建築関係の専門書が美しく背表紙を揃えて並び、どこか他人の侵入を拒絶しているような、洗練された『静かな檻』を思わせる空間だった。
(長谷川さん、やりすぎてはいけないって、あんなに自分を縛っていたのに……)
玄関の床を見つめて、私は胸の奥が痛くなった。
彼が「動くな」と自分に理性のブレーキをかけていたのは本当なのだろう。けれど、彼の体に染み付いた『優しさMAX』の性質は、私が履きやすいようにと、ゲスト用のスリッパをあらかじめミリ単位の狂いもなく美しく揃えてしまっていたのだ。
◇
リビングのローテーブルを挟み、備え付けのソファに腰掛ける。
スマートフォンが短く震え、画面にはアプリ『Re-Start』による「三時間滞在」のカウントダウンタイマーが冷徹に表示された。
沈黙が流れかけたその時、画面が白く明滅し、運営からの追加指示がポップアップした。
【パーソナルスペース共有の深化ミッション:双方は相手に対し、過去の交際で最も拒絶された『自分の性質』をあえて解禁し、残りの時間を過ごしてください】
画面を見つめる二人の間に、張り詰めた戦慄が走る。
長谷川さんへの義務は、徹底的に甘やかし、先回りで尽くすこと。
私への義務は、相手への過剰な配慮や、マメすぎる気遣い(重さ)を一切隠さないこと。
「……アプリの課題、厳しいね」
律さんは困ったように眉を下げて微笑むと、意を決したようにソファから立ち上がった。
「これで紡さんをダメにしてしまったらどうしようって、本当はすごく怖いんだ。……でも、義務だからね。目一杯、僕の我儘に付き合ってもらうよ」
そこからの時間は、お互いの歪みが引き起こす、奇跡的なバグの連鎖だった。
私がほんの少し視線を動かしただけで、律さんは「ハーブティー、おかわり淹れるね」「クッション、腰に当てると楽だよ」と、怒涛の過剰奉仕を解禁していった。
さらにお昼時になると、彼はキッチンへ立ち、完璧に栄養計算された温かい自家製の野菜スープを木製のトレイに載せて運んできてくれた。
「温いうちに食べてね」
差し出されたスープを口に含んだ瞬間、信じられないほどの優しいコクが口いっぱいに広がった。
一年前、元彼に食事を作っても「味が薄い」「家政婦気取りかよ」と放置され続けた私の自尊心が、温かいスープの熱と一緒にじわじわと溶かされていく。
嬉しくて泣きそうになるのを必死に堪えながら、私は受け入れ義務を盾にして、本来の『マメすぎる気遣い(重さ)』をすべて解放した。
「長谷川さん、キッチンで火傷しなかった?」「お野菜、包丁で切るの大変だったよね。……このおスプーンと器、私が洗ってもいい?」
普通なら「重い、母親面するな」と嫌がられるはずの私の言葉を、律さんは目を丸くした後、この世で最も美しいものを見るかのような、愛おしげな焦げ茶色の目で受け止めてくれた。
◇
ピピピ、とスマートフォンの無機質なアラームが鳴り響き、三時間の制限時間の終了を告げた。
名残惜しさに胸を締め付けられながら、私は玄関のドアの前で、律さんに向かって深く頭を下げた。
「長谷川さん、今日は本当にありがとう。こんなに尽くしてもらって、本当に申し訳ないよ……。私、長谷川さんに負担をかけすぎちゃった」
私の言葉に、律さんは慌てて首を振り、私の手元を優しく包み込むような距離まで一歩を踏み出した。
「そんなことない! 申し訳ないなんて言わないで、紡さん。僕の方こそ、自分の歪んだ尽くし癖を全部押し付けてしまって、迷惑だったよね。……でもね」
律さんは、どこまでも真っ直ぐな目で私を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「紡さんが、あんなに嬉しそうに『美味しい』ってスープを飲んでくれて、僕の気遣いを全部優しい言葉で返してくれた時……僕、一年ぶりに、自分のままでいていいんだって心の底から救われたんだ。紡さんが僕の檻を壊してくれたんだよ」
「長谷川さん……」
視界が、涙で急激に視界が歪んでいく。
「私だって同じだよ。私の重い気遣いを、長谷川さんは一回も嫌がらなかった。私も、自分のままでいいんだって、初めて思えたの」
お互いに「これはアプリの義務だから成立した、ただの一時的な錯覚だ」と、三十代半ばの大人の理性で、必死に自分へ言い訳をしている。
けれど、マンションを後にした私のスマートフォンと、静かな部屋に残された律さんのスマートフォンには、すでにビジネス(契約)の枠組みなんて綺麗に忘れてしまった熱量で、次の週末を狂おしいほどに待ち望むメッセージのラリーが刻まれ始めていた。
世間では悪癖と断じられた二人の歪みが、この聖域の中では「最高の溺愛」として完全に噛み合ってしまった。
もう、あの乾いた孤独の日常には二度と戻れない。その確信に震えながら、私たちはそれぞれの場所で、愛おしいスマホの画面をそっと胸に抱きしめていた。




