第13話「二週目の週末、届かない境界線」
二〇二六年、冬。
長谷川さんの部屋を訪れた、あの夢のような日曜日から数日。私たちは二ヶ月目の最初の平日の日常へと戻っていた。
オフィスのデスクでキーボードを叩きながらも、私の脳裏には、あの洗練された部屋のディテールが何度も色鮮やかに蘇っていた。
私のためにミリ単位で綺麗に揃えられていたゲスト用のスリッパ。
冷え切った身体に染み渡った、あの温かくて優しい自家製野菜スープの味。
『紡さんが僕の檻を壊してくれたんだよ』
真っ直ぐな焦げ茶色の目でそう言って微笑んでくれた、長谷川さんの低い声。
思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと切なく締め付けられる。
けれど、私はすぐに頭を振って、スマートフォンの画面の隅に表示されている冷徹な文字を見つめた。
【Re-Start契約期間:残り二ヶ月】
デジタルに刻まれたその数字が、私の内側にある三十四歳の理性を強烈に現実に引き戻す。
(勘違いしちゃダメよ、紡。あれはアプリの追加ミッションで『自分の性質を解禁しろ』って強制されたから。長谷川さんはパートナーとしての役割を、完璧に全うしてくれただけなんだから。本気になってこれ以上踏み込んだら、今度こそ嫌われるわ)
私の重い気遣いを一回も嫌がらなかった彼の優しさに、これ以上甘えてはいけない。私は脳内の検閲官の警告に従い、自らの心に強固な自制の壁を築き直した。
◇
同じ頃、設計事務所の打ち合わせ室で、律もまた、手元の図面を睨みつけたまま動けなくなっていた。
シャープペンの先が白紙の上で静かに止まっている。
自分の過剰な尽くし癖を押し付けたにもかかわらず、あんなに嬉しそうに涙を浮かべて受け入れてくれた紡さんの姿。
彼女が僕のために「スプーンを洗うね」とマメに動いてくれた、あの愛おしい日常の空気。
本当なら、今すぐにでも彼女の元へ駆けつけて、その小さな肩を抱きしめたくなるほどの熱が、胸の奥で燻っている。
けれど、三十五歳の分別が、彼の脳内で冷徹な自責のロジックを展開していた。
(元妻の時も、最初はそうだった。僕の独りよがりの先回りは、いつか必ず相手を退屈させ、重荷に変えてしまう。僕は彼女のトラウマを癒やすための、ただの『リハビリの壁役』だ。一時的なバグに浮かれて、彼女の領域を侵すような真似は絶対に許されない)
これ以上、僕の歪んだ優しさで彼女を不幸にしたくはない。
お互いに、これはただの契約関係。二人はそれぞれの職場で、より一層頑丈な理性のブレーキをかけ直していた。
◇
ハプニングも起きない、静かな木曜日の夜二十時。
日常メッセージリハビリの時間。
タメ口でのやり取りには少しずつ慣れてきたはずなのに、お互いに「ビジネス(義務)」という一線を意識しすぎるあまり、私たちの文章はどこか過剰に丁寧になり、本音を隠し合うようなもどかしい空気になっていた。
私は冷え切った駅のベンチに腰掛け、文字入力画面に、いつもの一文を打ち込んだ。
『今、仕事が終わったよ。これから、電車に乗って帰るね』
感情を徹底的に削ぎ落とした、位置情報付きの行動報告。
私は送信ボタンを押し、冷たい夜風を避けるようにマフラーに顔を埋めた。
その数秒後、設計事務所のデスクでそれを受け取った律は、スマートフォンの画面に灯った彼女の現在地(駅のマーク)を見つめながら、静かに息を呑んでいた。
彼女が今、冷たい夜風が吹き抜けるホームに一人で立っている姿が、五感を通して痛いほどリアルに想像できてしまう。
(今すぐ車で迎えに行きたい。温かい缶コーヒーでも買って、改札の前で彼女を待っていたい……)
脳内で暴走しかける過剰奉仕の衝動。律はそれを、デスクの下で拳をぎゅっと握り締めることで必死に抑え込んだ。そんなことをすれば、アプリの義務を逸脱した完全なプライベートの侵害になってしまう。
重いなんて、一ミリも思わない。
ただ、彼女が今夜も嘘をつかず、隠し事もせず、僕のために真っ直ぐ帰ろうとしてくれている。その誠実な一途さが、元妻の嘘に病んだ律の心を、この上ない優しさで満たしていく。
律はキーボードを叩き、彼女の夜道を労うための言葉を、慎重に、けれど溢れんばかりの温かさを込めて返信した。
◇
「……あぁ、本当にじれったいな」
金曜日の朝。満員電車の揺れに耐えながら、私はスマートフォンを開いた。
画面には、昨夜、送信からわずか数秒で返ってきた、長谷川さんからの丁寧なタメ口のメッセージが残っている。
『昨夜も丁寧な連絡をありがとう。無事に帰れたみたいで安心したよ。今日も寝不足になっていないかな。無理しないでね』
言葉遣いはフランクになり、あのプライベートな部屋にまで行ったはずなのに。
お互いに相手を大切に想うがゆえに、「これはアプリのリハビリ契約だから」という大人の分別の壁が、かえって分厚く二人の間に立ちはだかっている。
相手に甘えすぎてはいけない。
相手の負担になってはいけない。
そうやって自分を厳しく律すれば律するほど、胸の奥にある「義務なんかじゃなく、ただあなたに会いたい」「もっとその心に触れたい」という本物の恋の熱量が、行き場を失って、息苦しいほどに膨れ上がっていくのを感じていた。
二ヶ月目の日常が本格的に動き出す中、お互いの理性のブレーキが、逆に二人の恋愛感情を極限までじれじれと甘く煮詰めていく。
私たちはまだ、アプリの免罪符という檻の中で、もどかしい距離感に身を焦がし続けていた。




