第14話「甘やかしの閾値(しきいち)、触れたい指先」
二〇二六年、冬。
文字の上での『タメ口』リハビリが始まって、二週間目が終わろうとしていた。
窓の外では、容赦のない冬の夜風がビル街の隙間を吹き抜けている。
金曜日の深夜、二十三時。私は自宅のベッドに潜り込み、冷え切った自分の両手をそっと擦り合わせていた。
いつもなら、二十時前後に交わされる日常の行動報告ラリーはとっくに終わっているはずの時間。部屋の隅にある古い時計が、カチ、カチ、と規則正しい音を立てて、静寂を際立たせている。
私の手の中にあるスマートフォンは、ここ数十分間、静まり返ったままだ。
毎晩、一秒の狂いもなく私の生存報告を受け止め、温かい言葉を返してくれる長谷川さん。彼の存在は、今の私にとって、息をするために絶対に必要な酸素のようになっていた。
けれど、私の胸の奥にある脳内検閲官は、依然として冷たい声で警告を出し続けている。
(こんなに毎晩、長谷川さんの貴重な時間を奪って。アプリの義務だからって、彼は本当は疲れているんじゃない? 私のこの依存体質は、やっぱり相手にとって『重い』はずよ)
嫌われたくない。迷惑だと思われたくない。
一年前の婚約破棄のトラウマが、暗闇の中で何度も私の心を小さくすくませていた。
◇
同じ時刻。長谷川律もまた、静まり返った自宅の書斎で、デスクライトの青白い光に照らされながらスマートフォンを見つめていた。
手元の建築図面には何時間も前から全く進捗がない。
今週、紡さんから届いた一通一通のタメ口のメッセージをスクロールしては、彼女の誠実な一途さに胸を熱くさせていた。
けれど、彼女からの連絡がほんの数分遅れるだけで、かつての元妻の朝帰りの記憶がフラッシュバックし、胸が苦しくなる自分もいた。
(僕は彼女に依存し始めている。けれど、それは絶対に駄目だ。彼女を僕の存在に縛り付けちゃいけない。一歩引くんだ、律)
お互いに相手を大切に想うがゆえに、自制の壁を高く保とうとする。三十代半ばの分別が、私たちの距離を頑なに阻んでいた。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、私の側からの、ほんの小さな『歪み』の暴走だった。
◇
その日、私は職場の人間関係と、担当していたWEBディレクションの案件の板挟みに遭い、ひどく心をすり減らして帰宅していた。
いつもなら絶対に「深夜の連絡なんて迷惑に決まっている」と、文字を入力することすら自分に禁じていただろう。
けれど、心身の限界に近い疲労と、タメ口がもたらすかすかな甘え。そして何より、あのハーブティーの香りがした彼の部屋の温もりが、私の指先を滑らせてしまった。
『長谷川さん、お仕事中にごめん。なんだか、今日はちょっと疲れちゃったな……』
送信ボタンを押した瞬間、あまりの重苦しさに息が止まりそうになった。
(やってしまった。仕事の愚痴なんて、一番嫌われる行動なのに……!)
一年前、元彼に「仕事が大変で」と溢した時、「愚痴なんて重い、自分で解決しろよ」と冷たく突き放された記憶が蘇り、私はスマートフォンを毛布の奥へと隠した。
だが、そのメッセージを受け取った瞬間。
自宅で図面をチェックしていた律の脳内では、彼が必死に維持していた『甘やかしの閾値』が、音を立てて崩壊していた。
(あぁ、あの自己検閲の強い彼女が。僕に迷惑をかけまいと必死に縮こまっていた紡さんが、僕を頼って弱音を吐いてくれた……!)
普通の男性なら「夜遅くに重いな」と既読スルーするかもしれない場面。だが、優しさMAXの聖人である律にとって、それはこの上ない信頼の証であり、彼女を全力で甘やかし、全肯定したいという衝動の起爆剤となった。
律はシャープペンを放り出し、十代の少年のように狂おしい熱量で、即座にキーボードを叩き返した。
◇
スマートフォンが短いバイブレーションを響かせ、私は恐る恐る毛布から顔を出した。
画面に映し出された長谷川さんからの言葉を目にした瞬間、私の視界は一気に涙で滲んでいった。
『ごめん、なんて言わないで。紡が僕を頼って弱音を吐いてくれて、すごく嬉しいよ。今日一日、本当によく頑張ったね。……今すぐ紡の隣に行って、温かいココアでも淹れてあげられたらいいのに』
『今すぐ隣に行って、温かいココアを淹れてあげたい』
その、ビジネスとしてのリハビリの枠組みを完全に逸脱した、あまりにも真っ直ぐで過剰なまでの甘やかしの言葉。
「……長谷川、さん」
毛布を抱きしめたまま、私は声を震わせた。
仕事の愚痴を重いと切り捨てられた世界の中で、この人は私の弱さを丸ごと抱きしめて、もっと甘やかせなくて申し訳ないとすら言ってくれる。
お互いに「これはアプリのルールだから」という言い訳をしていた。
けれど、その免罪符はもう、自分たちの歪みを隠すための盾ではなく、**「相手を狂おしいほどに求め、甘やかし合うための最高の口実」**へとすり替わっていることに、私たちは気づいてしまっていた。
文字から伝わってくる圧倒的な溺愛の熱に、私たちの間の境界線は完全に形を失っていく。
もう、ただの練習相手だなんて、自分に嘘はつけない。
迫り来る翌週末のデートを前に、私たちはそれぞれの部屋で、切ないほどに高鳴る心臓の音に身を焦がし続けていた。




