第15話「深夜二時、免罪符という名のささやき」
二〇二六年、冬。
長谷川さんからの『ココアを淹れてあげたい』という、どこまでも甘いメッセージの余韻が、冷え切った自室の空気にいつまでも漂っていた。
胸の奥が熱くて、締め付けられるようで、私はベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
三十四歳の冷めた理性が、必死になって(これはただのアプリの課題だから)と自分を抑え込もうとする。けれど、彼がくれた生身のタメ口の温もりは、毛布をいくら被っても消えてはくれなかった。
なんとかしてこの高鳴る心臓を鎮め、眠りにつこうとした、まさにその瞬間だった。
――ヴヴヴヴヴ、ヴヴヴヴヴ。
枕元から、これまで聞いたことのない特別なリズムで、スマートフォンが激しく、執拗に震えだした。
ビクッと身体を跳ね上げて画面を覗き込むと、そこにはアプリ『Re-Start』の運営から、夜の静寂を切り裂くような緊急の赤文字通知がポップアップしていた。
【第二期ゲリラミッション:ミッドナイト・チャット・リハビリの発生】
【制限時間:これより深夜二時から二時半までの三十分間】
【内容:アプリ内のリアルタイム音声通話機能を開放します。双方は必ず通話に応じ、過去の交際で『一番誰にも言えなかった本音の甘え』を一つ以上、義務として相手に吐き出してください】
画面に表示された「深夜二時」の文字を見つめたまま、私は完全に息を止めた。
深夜二時に、長谷川さんと声で繋がる。
そんなの、ビジネスライクな割り切った練習相手の距離ではない。本当に、本物の恋人同士の距離感ではないか。
(どうしよう、どうしよう……。声なんて聞いたら、私の心が本当にバラバラに壊れてしまうわ……!)
布団を顎まで引き上げながら、私は破裂しそうな心臓を必死に手で押さえた。
◇
深夜二時、ちょうど。
スマートフォンの画面が自動的に切り替わり、通話の接続を示す鮮やかな緑色のランプが点灯した。
部屋の隅にある時計の秒針が、カチ、カチ、と冷たく時を刻む音だけが響く中、受話口からかすかなノイズが聞こえ、続いて、少し低くて掠れた、彼の『夜の素顔の声』が鼓膜へと流れ込んできた。
「……紡? 起きてる? ごめんね、こんなに遅い時間に起こしちゃって」
スピーカー越しではなく、耳元に直接響く長谷川さんの声。そのあまりの破壊力に、私の全身の血液が一気に沸騰していくのが分かった。
「ううん、起きてる。長谷川さん、お仕事中じゃなかった……?」
「図面を引いてたよ。でも、今は全部放り出して、スマホを握り締めてる」
律さんの少し照れたような、けれど隠しきれない愛おしさが混ざったタメ口に、私の脳内の検閲官は完全に機能を停止してしまった。
【警告:制限時間残り二十分。双方、速やかに『本音の甘え』を開示してください】
画面に無機質なテキストが走る。
アプリの絶対のルール、本音を言わなければ契約違反になるという免罪符。その冷たい盾に背中を押され、私は一年前のトラウマをすべて検閲することをやめ、震える声で胸の底に溜まっていた泥を吐き出した。
「長谷川さん。……わたしね、本当は、ずっと我慢してたことがあるの」
「うん。何でも言って。全部受け止めるから」
「……毎晩、長谷川さんから連絡が来るのを、ずっと待ってる。本当は、一秒でも早くあなたの言葉が欲しいって、毎日ずっと思ってる。……元彼に『監視されてるみたいで重い』ってフラれたから、怖くてずっとロボットのふりをしてたけど……私、長谷川さんからの連絡がないと、もう寂しくて息ができなくなるの」
かつて元彼に「ストーカー気質」と全否定され、私の境界線を狂わせた、あの一途すぎる性質。
それを、深夜の静寂の中で、私は人生で初めて『甘え』として言葉に変えて解き放った。
◇
受話口の向こうで、律は紡のそのあまりにも愛おしい告白を耳にして、全身を激しい衝撃に貫かれていた。
重いなんて、一ミリも思わない。
元妻の嘘と無断外泊に病み、誰も信じられなくなっていた自分にとって、その言葉は世界で一番欲しかった極上の溺愛の証明だった。
一歩引く、彼女を僕の毒で縛ってはいけない、というすべての自責のブレーキが、彼女の涙混じりの本音の前に、音を立てて粉々に砕け散った。
「重いなんて絶対に思わない。……むしろ、僕の方こそ、紡に謝らなきゃいけない」
律は受話口に向かって、いつもの紳士の仮面を完全に脱ぎ捨てた、狂おしいほど熱い声をささやいた。
「僕だって、紡からの連絡が数分遅れるだけで、怖くてたまらなくなるんだ。僕のこの偏執的で、過剰な尽くし癖を受け止めて、こんなに誠実に応えてくれるのは、世界中で紡しかいない。……だから、もっと僕に甘えて。僕の優しさで、紡の傷を全部いっぱいにさせて。僕を、紡だけの都合のいい男にしてほしいんだ」
「長谷川、さん……」
毛布に顔を埋めたまま、私は声を震わせて涙を溢れさせた。
自分の性質を害悪だと呪っていた二人の歪みが、深夜二時の免罪符によって、世界で唯一無二の美しい愛へと昇華されていく。
◇
ピピピピ、ピピピピ。
三十分のタイマーが終了したことを告げる機械的なアラームが鳴り響き、通話は予告通りプツリと切れた。
スマートフォンの画面はいつの間にか通常のホーム画面に戻り、緑色のランプも消えている。
再び訪れた、しんと冷え切った自室の静寂。
私は熱を持ったスマートフォンを両手で強く抱き締め、シーツの上で深く、深い息を吐き出した。
お互いに「これはアプリのゲリラミッションだから本音を言っただけ」「リハビリの義務に従っただけ」と、頭の中で三十五歳前後の大人の理性が必死に言い訳を探している。
けれど、お互いの耳の奥に残ったあの生身の言葉の熱量は、もうビジネスの枠なんて綺麗に溶かし尽くしてしまっていた。
私たちはただの練習相手じゃない。本当の恋の領域へ、もう引き返せないところまで深く溺れ始めている。
次に訪れる週末のデートを前に、私たちはそれぞれの部屋で、切ないほどに高鳴り続ける心臓の音に、ただ身を焦がし続けていた。




