第16話「鏡の向こうの違和感、冷めない余熱」
二〇二六年、冬。
あの息が詰まるほど甘かった、深夜二時の『ミッドナイト・チャット・リハビリ』から数日。新章の重い扉を開けた私たちは、一週間の始まりである月曜日の朝を迎えていた。
オフィスの洗面所。大きな鏡の前に立ち、私は自分の顔をじっと覗き込んでいた。
蛍光灯の白い光に照らされた自分の肌。一年前の破婚以来、ずっと生気がなくて、冷たい能面のようだった私の表情。
(……嘘、私の目元、こんなに柔らかかったっけ)
鏡の中の私は、明らかに以前とは違っていた。長谷川さんの『僕の優しさで、紡の傷を全部いっぱいにさせて』という夜の低いささやきが耳の奥でリフレインするたび、頬に淡い熱が上っていく。
すぐに脳内の検閲官が、激しいパニックと共に大人のブレーキを強くかけ直そうとする。
(あんな露骨な本音を言ってしまったのよ、紡。アプリの義務で強制されたからって、引き込もっていた『重さ』を全部ぶちまけるなんて。長谷川さん、本当は引いているに決まっているわ……!)
嫌われたくない、これ以上迷惑をかけたくない。私は冷たい水で何度も顔を洗い、元の「完璧な仕事ロボット」の仮面を必死に被り直した。
◇
同じ頃、設計事務所の自分のデスクで、律もまた、広げられた建築図面を前にして激しく動揺していた。
シャープペンを握る手のひらが、妙に熱い。
耳の奥に残って離れない、紡さんのあの涙混じりの震える声。
『長谷川さんからの連絡がないと、もう寂しくて息ができなくなるの』
元妻の嘘に病み、誰も信じられなくなっていた自分の胸の奥に、彼女の一途さがこれ以上ないほどの爆発的な救いをもたらしていた。本当なら、今すぐにでもスマホを開いて、彼女に優しい言葉を無尽蔵に注ぎ込んであげたい。
けれど、三十五歳の中堅設計士としてのプライドが、彼の脳内で冷徹な自責の壁を高く築き直していた。
(落ち着け、律。僕はアプリのリハビリの『壁役』の分際に過ぎない。一時的な深夜の熱量に絆されて、彼女を僕の歪んだ独占欲で縛り付けるような真似は、絶対に許されないんだ)
これ以上、僕の優しさで彼女を甘やかし、ダメにしたくはない。
二人はお互いを想うがゆえに、それぞれの職場で、これまで以上に頑丈な理性の防衛線を張り直していた。
◇
しかし、そんな私たちの「自衛の仮面」は、昼下がりのオフィスの日常の中で、第三者の視線によってあっさりと暴かれることになる。
「あの、椎名さん。余計なことだったら本当にすみません」
WEBディレクションの打ち合わせが終わった会議室。資料を片付けていた後輩の女性社員が、思い切ったように私に無邪気な声を向けてきた。
「椎名さん、最近なんだか雰囲気がすごく柔らかくなりましたよね。前はもっと、完璧な仕事ロボットって感じで話しかけるのも緊張してたんですけど……。もしかして、何かいいことあったんですか?」
「えっ……!?」
心臓がドキンと跳ね上がり、私は抱えていたクリアファイルを落としそうになった。
「そ、そんなことないわよ。ただの寝不足か何かじゃないかしら。ほら、次の案件の進捗検閲に戻りましょう」
慌てて早口で誤魔化し、私は逃げるように会議室を後にした。
けれど、自分の心が長谷川さんのあの底のない溺愛によって、確実に「人間の形」を取り戻していることを客観的に突きつけられ、手元のスマートフォンを握る指先が小さく震えた。
同じ頃、設計事務所の自販機コーナー。
律は冷たい缶コーヒーを片手に、同僚の男性社員からニヤニヤと肩を小突かれていた。
「おいおい長谷川、お前最近、デスクでスマホ見る回数めちゃくちゃ増えただろ。しかもさ、前みたいに『誰も甘やかさないぞ』っていう冷徹な顔じゃなくて、なんか、ものすごい優しい顔して操作してる。さては、いい女でもできたな?」
「……ただの、個人的な、連絡だよ」
律は激しく動揺し、慌てて視線を缶コーヒーのプルタブへと落とした。
気が付かないうちに、自分は紡さんからの連絡を心から待ち望み、彼女に文字を返す瞬間に、世界一幸福そうな『素顔』を周囲に晒してしまっていたのだ。その事実に、律の背中に冷や汗が流れた。
◇
そして、月曜日の夜二十時。
一週間の始まりを告げる、いつもの日常メッセージリハビリの時間が訪れた。
周囲からのツッコミという客観的な視線を経て、私たちの胸の奥には、一つの強烈な疑問が逃れようもなく支配していた。
(これは本当に、アプリの『義務』として片付けていい関係なの……?)
駅のホーム。私は冷たい指先で、文字入力画面を見つめていた。
いつもの行動報告。けれど、私の指は、もう自制のブレーキを無視して動いていた。
『今、仕事が終わったよ。……長谷川さん、今日も寝不足になってない? 体調、大丈夫かな?』
義務である自分の報告だけでなく、明確に彼の身体を気遣う、一途な一文(重さ)。
私は目を瞑るようにして、そのメッセージを送信した。
数秒後、オフィスのデスクでそれを受け取った律は、自分のスマートフォンを見つめる顔が、同僚の言った通り「世界一優しい顔」に歪んでいくのを、もう止めることができなかった。
ビジネスの枠なんて、とうの昔に焼き尽くされている。律は持てる限りの愛おしさを込めて、即座に画面をタップした。
『大丈夫だよ。紡からの言葉が、僕にとって一番の栄養だから。今夜も冷えるから、気をつけて帰ってね』
画面に並ぶ、アプリの免罪符を完全に踏み越えた、最高糖度の相思相愛のラリー。
「これはもう、普通に付き合っているのでは?」という動かぬ事実に気づきかけ、私たちはそれぞれの場所で、破裂しそうなほど激しく心臓を打ち鳴らしていた。
お互いを意識しすぎて、視線を合わせるだけでどうにかなってしまいそうな、次なる週末の対面デートを前に。私たちの理性の防衛線は、内側からの甘い熱によって、完全に悲鳴を上げ始めていた。




