第17話「大人の火照り、メニュー越しの距離」
二〇二六年、冬。
職場の同僚たちからの無邪気なツッコミを経て、私たちは週末の対面リハビリデートを迎えていた。
恵比寿駅の改札前。休日の賑わいの中で長谷川さんを待つ間、私はコートの襟に深く顔をうずめていた。
深夜二時のあの掠れた通話の声、そして「これはもう普通に付き合っているのでは」という月曜日の日常LINE。お互いを狂おしいほどに求め合っているという客観的な事実に気づいてしまった今、私は自分の心臓の音がうるさくて仕方がなかった。
しかも、今日のデートからは、対面であっても【敬語の使用を一切禁止】というアプリの強制ルールが適用される。
一週目のレストランの時とは全く違う種類の、爆発しそうなほどの緊張感が、私の喉をからからに干からびさせていた。
「待たせてごめん、紡。……行こうか」
人混みを割って現れた律さんの声に、私の身体が小さく跳ね上がった。
私を見つめる律さんの焦げ茶色の垂れ目も、いつもの大人の余裕はどこへやら、ひどく泳いでいる。同僚に「優しい顔でスマホを見ている」と指摘された記憶がよみがえっているのだろう、彼は私の顔を真っ直ぐ見ることすら気恥ずかしそうに、耳の裏までほんのりと赤く染めていた。
◇
律さんが案内してくれたのは、少し照明を落とした、落ち着いた大人のフレンチレストランだった。
大理石のテーブルを挟んで向かい合わせに座る。けれど、お互いを異性として強烈に意識しすぎているため、室内のクラシック音楽すら耳に入らないほど、空気はガチガチに張り詰めていた。
これまでは、アプリの課題を「義務」と言い訳にしてスマートに動けていた。けれど、自分の本心の恋心に気づきかけている今は、お互いに一挙手一投足がぎこちなくなってしまう。
律さんはメニューを開く手がわずかに震えており、視線をあちこちに彷徨わせていた。
私もお水を一口飲むだけで喉が鳴るほどの緊張感の中、必死に脳内でタメ口の検閲を繰り返す。
「あ、あのね、律さん。今日のお店、すごく雰囲気が素敵……だね」
「うん、喜んでもらえてよかった。……紡、今日の髪型、すごく、可愛い……ね」
「あっ、ありが、とう。……律さんも、そのシャツ、格好いい、よ」
たったそれだけの、小学生のようなタメ口の掛け合い。
それなのに、言葉が交わされた瞬間に、お互いの顔が燃えるように真っ赤に染まった。
三十代半ばの社会人が、メニューを開いたまま完全にフリーズして、視線を合わせられずにいる。普通の恋愛市場なら「不器用すぎる」と呆れられるかもしれない。けれど、傷ついて防衛線を張り巡らせらせてきた私たちにとっては、この初々しすぎる距離感こそが、息が詰まるほどの切ない熱量を持っていた。
「何を頼もうか。紡の好きなものは、一通り頭に入っているつもりなんだけど……」
「う、うん。律さんの選んでくれたものなら、私、何でも嬉しい、よ」
「そう言ってもらえると助かるな。実は、君が左利きでも食べやすいように、ナイフとフォークの配置を最初から配慮してくれるお店を選んだんだ」
「えっ……そこまで考えてくれたの?」
「うん。紡に、少しでも心地よく過ごしてほしかったから」
◇
やがて、美しく盛り付けられた前菜の料理が運ばれてきた。
これまでの律さんなら、優しさMAXの行動原理で、私が困る前にスマートに料理を取り分けたり、お店の人を呼んだりしてくれていただろう。
けれど、今の律さんは、お皿を見つめたまま固まっていた。
「格好いいところを見せたい」「指先が触れたらどうしよう」「でも、僕の先回りがまた彼女の負担になったらどうしよう」という、本気の恋の焦りと自責が脳内で空回りして、逆に身体がすくんで動けなくなってしまっているのだ。
「律さん……? どうしたの?」
「いや……何でもないんだ。ただ、紡を前にすると、どうしてか上手く動けなくなってしまって。いつもの僕なら、もっとスマートにトングを扱えるはずなんだけど」
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
そんな律さんの、いつもの完璧な紳士らしからぬ不器用な様子を見た瞬間、私の胸の奥に、言葉にできないほどの愛おしさが爆発した。
(あぁ、長谷川さんも、私と同じように怯えて、私のためにこんなに緊張してくれているんだ……)
嫌われる恐怖も、自己検閲も、その瞬間にすべて消え去った。
私は自ら一歩を踏み出すため、テーブルの上の共有のウォーターカラフェをそっと手に取った。 shadowそして、律さんの少し震えているグラスへ、優しくお水を注ぎ込む。
「律さん、お水、淹れるね。……私ね、律さんの前だと、かっこいい大人のふり、できなくなっちゃうな」
アプリの義務でも、リハビリの課題でもない。私が私の意志で、彼の緊張を解してあげたいと願った、自発的な気遣い。
その私の『重さ(一途さ)』を受け取った瞬間、律さんは弾かれたように目を見開いた。
「紡……ありがとう。そんな風に言ってもらえるなんて、思ってもみなかった」
「私の方こそ、いつも甘えてばかりでごめんね」
「謝らないで。僕は、君に甘えられるのが、何よりも嬉しいんだから」
向けられた彼の焦げ茶色の瞳には、もう自制のブレーキなど微塵も残っていなかった。
メニュー越しに交わる、熱い視線のラリー。
「リハビリの練習相手」という最後の盾は完全に意味をなさなくなり、生身の男女として本気で惹かれ合っている現実が、私たちの理性の防衛線を内側から完全に融解させていく。
私たちはただ、互いの瞳の奥にある、狂おしいほどの愛おしさに身を焦がし続けていた。




