第7話「三回目の距離、かすかな独占欲」
金曜日の夜。日常の連絡報告を終えたスマートフォンの画面に、アプリ『Re-Start』からの一通の自動通知がポップアップした。
【第一期・三回目の対面リハビリデートの予定が確定しました】
画面に表示された週末の予定を見つめながら、私はベッドの上で小さく息を呑んだ。
三回目のデート。行き先は、大人の落ち着いた雰囲気が漂う恵比寿の街並みと、静かな隠れ家カフェ。
長谷川さんにまた会える。その純粋な嬉しさで胸が高鳴るのと同時に、私の脳内の検閲官が再び頑丈な壁を築き直していく。
(喜びすぎちゃダメよ、紡。私の『重さ』で、長谷川さんのあの限りない優しさに甘えすぎては迷惑になる。次のデートでも、絶対に一線を越えないように自分を厳しく律しなきゃ)
同じ頃、自宅のベランダで夜風に当たっていた律さんもまた、夜景を見つめながらスマートフォンをポケットに収めていた。
次の週末も、彼女のあの誠実な笑顔に会える。その事実に、胸の奥が静かに弾んでいた。
けれど、律さんもまた、三十五歳の大人の分別で慌てて自戒のブレーキを踏み直す。
(落ち着くんだ、律。僕は彼女のトラウマを癒やすための、ただの『壁役』に過ぎない。調子に乗って過剰に尽くせば、また相手の自立を奪う毒になる。ビジネスとしての立場を忘れるな)
お互いに、これはあくまでリハビリの義務。そう強く自分に言い聞かせながら、私たちは日曜日という約束の時間を迎えた。
◇
日曜日。よく晴れた恵比寿ガーデンプレイスの広場。
洗練されたレンガ造りの街並みの中を、私たちは並んで歩き始めていた。
「一歩引く」と心に誓ってデートに臨んだ律さんだったけれど、アプリの義務を免罪符にした彼の『優しさMAX』のレーダーは、私の想像を遥かに超える精度で自動稼働していた。
「椎名さん、歩くペース、早すぎませんか? 疲れたらすぐに言ってくださいね」
私がヒールの靴でほんの少し歩調を乱した瞬間、律さんはそれに瞬時に気づき、さりげなく自分の歩幅を狭めて速度を落としてくれた。
さらに、休日で賑わうレンガ通りの人混みの中で、対向から歩いてきた人が私と軽くぶつかりそうになった、その時だった。
「っと、すみません」
律さんは私の肩や体に直接触れて不快感を与えないよう、細心の注意を払いながら、自分の体をすっと壁にするようにして私をスマートに庇ってくれた。
彼のシャツから、ほんのりと清潔な柔軟剤の香りが漂う。
一年前の過去が、頭の裏側をよぎる。
「後ろを勝手について来いよ」と言い捨てて、人混みの中で私を顧みずにどんどん先へ歩いていってしまった元彼。
それに比べて、律さんのこの徹底した、押し付けがましくない紳士的なエスコート。
大切にされている、という確かな実感が、私の胸を一いっぱいに満たしていく。
◇
律さんが事前にリサーチして予約してくれていたという、路地裏の地下にある静かな隠れ家カフェ。
アンティーク調のランプが灯る落ち着いた席に落ち着き、私たちはそれぞれ温かい珈琲を注文した。
ハプニングが起きたのは、若い男性の店員さんが、注文の品をテーブルに運んできた時だった。
「お待たせいたしました。……あの、余計なことでしたらすみません。お客様のそのボブカットの髪型、お店の雰囲気にすごく合っていて素敵ですね」
店員さんは、営業トーク混じりの爽やかな微笑みを私に向けた。
「あ、ありがとうございます……」
想定外の言葉に、私は少し照れて、小さく微笑んで頭を下げた。
ただの、ありふれた日常の一コマ。
けれどその瞬間、対面に座る律さんの胸の奥で、経験したことのない静かな『焦燥感』が小さく火花を散らした。
元妻の浮気によって心を深く病んだ律にとって、異性が紡に向ける無防備な視線と、それに対して紡が浮かべた微笑みは、彼のサレ側としての境界線に、無意識の強い警戒アラートを鳴らさせてしまったのだ。
(あぁ、僕は……椎名さんが他の誰かに微笑みかけるのが、こんなにも苦しいのか)
律さんは、自分の醜い独占欲に内心で激しく動揺した。だが、彼は優しさMAXの紳士だ。嫉妬を汚い言葉や態度に出して、彼女を困らせるような真似は絶対にしない。
店員さんが去った後、律さんはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべたまま、そっと、ほんの少しだけ座り直して、私との物理的な距離を詰めた。
まるで、私を外の世界の視線から守るように。
「……長谷川さん?」
私が小さく小首をかしげると、律さんはどこまでも優しい焦げ茶色の目で、私を真っ直ぐに見つめ返した。
「椎名さん。……本当に、その髪型、すごく似合っていますよ」
いつもより、ほんの少しだけ低く、熱を帯びた声。
その穏やかな微笑みの裏にある、律さんの「僕だけのものにしたい」というかすかな、けれど狂おしいほどの独占欲を、私は敏感に察知していた。
(えっ……? 今、長谷川さん、私のことを……)
世間一般の恋愛市場なら、「重い束縛」や「嫉妬深くて面倒くさい」と切り捨てられるはずの、その微かな歪み。
けれど、誰よりも一途な愛を求め、気遣いを重いと捨てられた私にとっては、その律さんの独占欲こそが、何よりも欲しかった『世界で一番美しい愛の証明』だった。
カッと、顔が内側から燃えるように熱くなる。心臓の音が、カフェの静かなBGMをかき消すほどに大きく響いた。
これはリハビリの義務。お互いに期待をしない練習。
頭の中で鳴り響く理性の壁は、お互いの歪みが完璧に噛み合ったその瞬間の甘い衝撃によって、もはや木っ端微塵に打ち砕かれようとしていた。




