第6話「金曜日の足音と、小さな変化」
神楽坂でのレストランデートを終えた、翌週の月曜日。
私たちの二週目となる日常リハビリが、静かに幕を開けていた。
オフィスのデスクでパソコンに向かいながらも、私の脳裏には、あの白いテーブルクロスの上で見た長谷川さんの優しい笑顔が、何度も浮かんでは消えていた。
私の左利きに気づいて、さりげなくフォークの位置を直してくれた、あの綺麗な指先。
「あなたの喜ぶ顔が見たくて、僕がやりたくてやっていることですから」という、どこまでも穏やかな声。
思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
けれど、私はすぐに頭を振って、キーボードを叩く手に力を込めた。
(ダメよ、紡。調子に乗っちゃダメ。あれはアプリの『義務』という免罪符があったから。長谷川さんはリハビリのパートナーとして、完璧に役割をこなしてくれただけなんだから)
同じ頃、設計事務所の打ち合わせ室で、律さんもまた、手元の図面を見つめたまま小さく息を吐いていた。
自分の過剰な尽くしを、あんなにも純粋に、涙を浮かべるほど喜んでくれた紡さんの姿が、どうしても頭から離れない。
けれど、三十五歳の分別が、彼の胸の内に冷たい自制の壁を築き直していた。
(勘違いしてはいけない。僕は課題に背中を押されたから、あの優しさを出せただけだ。普段の僕は、他人の領域を侵す毒を持った人間なのだから。ビジネスとしての距離感を、絶対に忘れてはならない)
お互いに、これはただの契約関係。そう自分に言い聞かせながら、私たちはスマートフォンの画面を通じて、二週目の日常LINEラリーを淡々と重ねていった。
◇
ハプニングが起きたのは、その週の木曜日の夜だった。
担当していたWEBサイトの公開直前に、突発的なシステムバグが発生した。
ディレクターである私は、エンジニアたちとの確認作業に追われ、気がつけば時計の針は二十二時を大きく回っていた。
「はぁ……。やっと終わった……」
誰もいなくなったオフィスで、私はデスクの上のスマートフォンを手に取った。
いつもなら、二十時には長谷川さんへ『今、仕事が終わりました』と行動報告を送っている。
けれど、今日はもう二時間以上も遅れてしまっていた。
静まり返った室内で、私の脳内の検閲官が、一年前の記憶を呼び覚まして激しく騒ぎ立てる。
(こんな夜遅くにLINEをするなんて、やっぱり迷惑よ。元彼だって『夜遅くに何してるか聞いてくるな、監視されてるみたいで息が詰まる』って怒ったじゃない。用件もないのにこんな時間に送ったら、今度こそ嫌われるわ……)
スマートフォンの冷たい画面を前に、指先が恐怖でこわばる。
けれど、これはアプリの絶対のルールなのだ。私には、彼へ行動報告を送る『義務』がある。
私は逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、言い訳をするようにして、震える指でメッセージを打ち込んだ。
『長谷川さん、遅くなってしまってすみません。突発的な仕事のトラブルで、今やっとオフィスを出ました。これから帰ります』
送信ボタンを押し込んだ瞬間、私は罪悪感で胸が押し潰されそうになり、スマートフォンの画面を伏せてバッグの中に押し込んだ。
◇
一方その頃、自宅のリビングで、律はソファに座ったまま、所在なさげにスマートフォンを何度も見つめていた。
いつもなら二十時ぴったりに届く、紡さんからの誠実な行動報告。
それが、今日は二十二時を過ぎても届かない。
律の脳裏に、一年前の元妻の姿が最悪のフラッシュバックとなって蘇っていた。
朝帰りを繰り返し、どこで誰と何をしているのか、いくら待っても連絡が来なかった、あの嘘に塗れた孤独な夜。
(……落ち着くんだ、律。椎名さんは僕の妻ではないし、これはただのリハビリだ。彼女のプライベートを縛る権利なんて、僕にはない)
頭では分かっていても、サレ側のトラウマが、彼の胸の奥をじりじりと焦がしていく。
その時、スマートフォンが短く、鋭く震えた。
慌てて画面を開くと、そこには紡さんからの、遅れたことへの丁寧な謝罪と、今仕事が終わったという誠実な文字が並んでいた。
さらに、彼女の現在地を示す、オフィスビルの位置情報も添えられている。
その瞬間、律の胸を支配していた暗い不安は、一気に吹き飛んだ。
嘘がない。隠し事もない。彼女は本当に、今まで一生懸命に働いていたのだ。
(重いなんて、とんでもない。こんなに遅くまで大変だったんだな。こんな時間まで、僕への報告を気に病んでくれていたなんて……)
律は内心で、彼女への愛おしさと、夜道を一人で歩いているであろう彼女への強い心配に包まれていた。
一歩引くという自戒のブレーキは、彼女の誠実さを前に、またしてもあっさりと外れていく。
律はキーボードを叩き、持てる限りの優しさを込めて即座に返信を送った。
◇
金曜日の朝。
満員電車の揺れに耐えながら、私はスマートフォンを開いた。
画面には、昨夜、送信からわずか数秒で返ってきた、長谷川さんからのメッセージが残っている。
『椎名さん、こんなに遅くまで本当にお疲れ様でした。謝る必要なんて、全くありませんよ。トラブルは無事に解決したでしょうか? 今夜は寝不足になっていませんか。今日一日を乗り切れば、待ちに待った週末ですね。体調を崩さないよう、どうか無理はしないでください。無事に帰宅できたようで、本当に安心しました』
吊り革を握る手に、じわりと温かい力がこもる。
「毎日連絡が来ると息が詰まる」と元彼に切り捨てられた、私の気遣い。
けれど、長谷川さんは私の遅い連絡をずっと待っていてくれて、迷惑がるどころか、私の体調を誰よりも優しく気遣ってくれた。
――あぁ、やっぱり、この人の前だと、私は迷子にならずに済むんだ。
まだ一ヶ月目の、二週目。
恋と呼ぶにはあまりにも臆病で、お互いにアプリの義務という免罪符の後ろに隠れているけれど。
日常のたった一通のラリーを重ねるごとに、私たちの距離は、確実に、切ないほどに縮まり始めていた。




