第5話「一歩進むための、美味しい押し問答」
あの一通のメッセージラリーから数日。
週末の昼、私たちは二回目となる対面リハビリデートを迎えていた。
指定された場所は、神楽坂の路地裏に佇む落ち着いたイタリアンレストラン。
白いテーブルクロスが美しく整えられた大人の空間で、私は緊張のあまり、膝の上で何度も指先を組み替えていた。
当日の朝、スマートフォンに届いたアプリ『Re-Start』からの通知が、頭を離れない。
【第二期:対面食事リハビリのミッション】
【長谷川ユーザーへの義務:食事中、セーブせず相手に尽くすこと】
【椎名ユーザーへの義務:長谷川ユーザーの気遣いを、拒絶せずすべて受け入れること】
普通の恋愛市場なら、相手を甘やかしすぎてダメにする悪癖。
そして、相手に無理をさせて引かれる原因になる私の遠慮。
お互いに「これはアプリの義務だから」と言い聞かせながらも、私たちはどこか身構えた状態で席についていた。
◇
「椎名さん、こちらの前菜、カポナータがお好きだとプロフィールにありましたよね。よろしければ先にどうぞ」
運ばれてきた大皿料理を前に、律さんの『優しさMAX』の行動原理が、アプリの義務を免罪符にして静かに解禁された。
一切の嫌味も、これみよがしな態度もない。
律さんはトングを滑らかに扱い、私の小皿へ美しく料理を取り分けていく。
それだけではなかった。
「あ……」
私がパスタに手を伸ばそうとした瞬間、律さんがそっと手を動かした。
彼の手によって、フォークとナイフの位置が左右逆に、使いやすく直される。
私が左利きであることに、彼は最初の数分で気づき、彼女が手を伸ばす前に先回りして直してくれたのだ。
さらに、私のミネラルウォーターのグラスが半分以下になる前に、お店の人へ絶妙なタイミングでアイコンタクトを送り、おかわりを頼んでくれる。
元彼にいつも放置され、自尊心を削られ続けていた私にとって、それはめまいを覚えるほどの神の領域の優しさだった。
けれど、長年のトラウマが、私の脳内でパニックを引き起こす。
(こんなに都合よく尽くされるなんて、何か裏があるんじゃない? 私が重いから、気を使わせて無理をさせているのよ。早くこの過保護な時間を止めなきゃ……)
◇
メインディッシュが運ばれてきたタイミングで、私は申し訳なさに耐えかね、手を膝の上で強く握りしめながら告げた。
「あの、長谷川さん。そんなに私に気を使わないでください。私、なんだか申し訳なくて……」
私の言葉に、律さんの体が微かにこわばる。
(やっぱり、やりすぎてしまった。僕の過剰な尽くしは、彼女にとって負担でしかないんだ。また、相手を追い詰めてしまったのか)
律さんの瞳に、一瞬だけ深い自責の色が浮かぶ。
けれど、彼はすぐに気がついた。私の目が「拒絶」ではなく、嫌われることを怖がる「怯え」に揺れていることに。
律さんは、視線をどこまでも柔らかく緩め、私を包み込むような穏やかな声を響かせた。
「椎名さん。申し訳ないなんて、どうか思わないでください」
彼はゆっくりと微笑む。
「これは僕の、勝手な我儘なんです。あなたの喜ぶ顔が見たくて、僕がやりたくてやっていることですから。義務だからではなく、僕の心がそうしたいから動いているんです。だから、どうかそのまま受け取っていただけませんか」
計算も、見返りも、下心もない。ただ私の幸せを願うためだけの言葉。
――あぁ、この人の優しさには、底がない。
世間では「尽くしすぎ」「重すぎる」と切り捨てられた私たちの歪み。
けれど、相手に負担をかけたくない男と、相手に迷惑をかけたくない女が、こうして一歩譲り合ったとき。それはお互いのトラウマを極上の溺愛で溶かし合う、唯一無二の救いへと昇華されていく。
これはリハビリの義務。ただのビジネスライクな契約関係。
頭の中でそう呟く理性の声は、運ばれてきたドルチェの甘い香りの影に、すっかりとかき消されていた。
お互いが「この世で一番、自分を安心させてくれる特別な存在」であることを確信しながら、私たちの溺愛メーターは、一ヶ月目の終わりにして静かに上限を突破していた。




