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三ヶ月限定の逆療法〜「尽くしすぎ」と「重すぎる」を解禁したら、お互いにとっての理想の溺愛になりました〜  作者: 寝不足魔王


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第4話「初めての『義務』、最初のバグ」

 ホテルのラウンジ。

 大理石の床に差し込む陽光の中で、私は弾かれたように目を見開いていた。


「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 律さんの差し出してくれた手を遮らないよう、私は静かに立ち上がり、空調の風が当たらない彼の席へと移動した。

 入れ替わりで冷風の真下に座った律さんは、寒そうな素振りなど微塵も見せず、ただ安心したように微笑んでいる。

 私が何も言わなかったのに。迷惑かもしれないと、これほど頑なに心を隠して縮こまっていたのに。

 この人は出会って最初の数秒で、私の小さな痛みをこんなにも優しく見つけてくれた。


 けれど、私の内側にある三十四歳の理性が、すぐに強烈な警告音を鳴らした。

(ダメよ、紡。勘違いしちゃいけない。これはアプリの顔合わせ、つまりビジネスのようなもの。最初から期待値はマイナス百点のはず。相手の優しさに甘えすぎて、迷惑をかけてはいけないわ)


 律さんもまた、内心で自分の『尽くし癖』の暴走に冷や汗をかいていた。

(やってしまった。一歩引くはずだったのに、初手から先回りして彼女の環境をコントロールしてしまった。これ以上、彼女の負担になってはいけない。ここでブレーキを踏み直すんだ)


 お互いに「これ以上の深追いはしない」と心に決めた私たちは、その後、社会人としてのスマートな会話だけでお茶を終えた。

「それでは、椎名さん。またアプリの指示に従って」

「はい、長谷川さん。今日はありがとうございました」


 ホテルのロビーで、私たちは綺麗に一礼して解散した。

 お互いに嫌われないよう、負担をかけないよう、完璧に距離を保ったまま。


 ◇


 賃貸マンションの自室に帰宅した私は、ベッドに倒れ込んで猛烈な一人反省会を開いていた。

 今日の私の態度は大丈夫だっただろうか。冷たすぎただろうか。それとも、やっぱりどこか重かっただろうか。


 ぐるぐると同じ後悔を繰り返していたとき、スマートフォンが短く震えた。

 アプリ『Re-Start』の運営からの、最初の日常ミッションの通知だった。


【第一期:日常メッセージリハビリを開始してください】

【椎名ユーザーへの義務:一週間、我慢せず、相手に日常の行動報告メッセージを送信すること】

【長谷川ユーザーへの義務:セーブせず、そのすべてを優しく受け止めること】


 画面を見つめたまま、私の指先が凍りつく。

 行動報告。用件のない、ただの日常の連絡。

 かつて元彼に「監視されているみたいで息が詰まる」と全否定され、私の境界線を完全に狂わせた、あの恐怖の行動。


(また嫌われる。うっとうしいって思われるに決まっているわ……)

 けれど、これはアプリの『義務』なのだ。

 そう自分に言い訳をしなければ、私は一歩も踏み出すことができなかった。


 ◇


 平日の夜、二十時。

 仕事終わりの駅の改札前で、私はスマートフォンの画面を見つめたまま立ち尽くしていた。

 ホームへ向かう人々が私の脇を通り過ぎていく中、文字入力の画面を開く。


『今、仕事が終わりました。これから電車に乗って帰ります』


 ただそれだけの一文。

 なのに、脳内の検閲官が狂ったように騒ぎ立てる。

(迷惑じゃない? 忙しいかもしれないのに、こんな個人的な報告、ストーカーみたいで気持ち悪いって思われたらどうするの?)


 心臓が痛いほど早鐘を打つ。

 私は逃げ出したい衝動を必死に抑え、これはリハビリの義務だから、と自分に言い聞かせて、送信ボタンを押し込んだ。

 送ってしまった。嫌われたかもしれない。

 最悪の結末を想像して身を縮めた、その時だった。


 ――チカリン。


 送信から、わずか五秒。

 スマートフォンのバイブレーションが、私の手のひらを震わせた。


『長谷川です。今日もお仕事、本当にお疲れ様でした。わざわざご連絡をありがとうございます。今夜は一段と冷え込みますから、夜道は気をつけて帰ってくださいね。無事の帰宅を祈っています』


 画面に並ぶ、どこまでも丁寧で、温かい労いの言葉。


 一方その頃、設計事務所のデスクで、律は深く、深く息を吐き出していた。

 彼女から届いた位置情報付きの行動報告。

 元妻の無断外泊や、どこで誰と何をしているか分からない嘘の日々に心を病んだ律にとって、その『一途すぎる報告』は、乾ききった砂漠に染み渡る極上の水のようだった。


(重いなんて、とんでもない。僕を不安にさせないために、こんなにマメに、誠実に連絡をくれるなんて。椎名さんは、なんて優しくて素晴らしい人なんだろう)


 律は内心で爆発的な安心感に包まれながら、彼女を傷つけないよう、持てる限りの優しさを込めて即座に文字を返したのだった。


 駅のホーム。冷たい夜風が吹き抜ける中、私はスマートフォンの画面を見つめたまま立ち尽くしていた。

 即レス。それも、私の存在を丸ごと肯定してくれるような、圧倒的な優しさの塊。


「……あ」


 視界が、じわじわと涙で滲んでいく。

 連絡しても、怒られない。迷惑がられない。

 私の『重さ』が、この人の前では、初めて綺麗な形として受け止められた。


 一年間、ずっと閉ざされていた胸の奥のつかえが、音を立てて消えていく。

 期待値マイナス百点から始まった、ただのビジネスのはずのリハビリ。

 けれど、この暗闇の世界の中で、私たちはたった一通のメッセージで、お互いにとっての『世界一安心できる場所』を創り出そうとしていた。


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