第3話「期待値ゼロの夜明け」
二〇二六年、冬。
あの日から、ちょうど一年が経った。
仕事帰りの深夜、薄暗いリビングのソファで、私はスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
白く発光する画面に滑り込んできたのは、審査制アプリ『Re-Start』からの通知。
それは、厳格な入会審査の通過と、最初のマッチングが成立したことを告げる機械的な文面だった。
画面をスクロールすると、相手のプロフィール欄に、このアプリ特有の冷徹なステータス情報が並んでいる。
『ユーザーID:長谷川 律(三十五歳)』
『サレ履歴:元配偶者の不貞(期間:二年、協議離婚完了)』
『トラウマ度:クラスAA』
『警戒アラート:過剰奉仕、および自己犠牲による自責傾向』
趣味や仕事の経歴と並んで表示されたその文字を見つめているうちに、私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
三十五歳。働き盛りで、きっと仕事もできて、根が優しすぎる男性なのだろう。
そんな人が、僕の過剰な尽くしが元妻をダメにした、などという歪んだ自責の念を抱えて立ちすくんでいる。
自分の『重さ』に怯えて引きこもっている私とは、まるで真逆の理由で、けれど同じ深さの傷を負っている人だった。
アプリの規約には、三ヶ月間のリハビリ契約として、一つの特殊なルールが明記されていた。
【本リハビリ期間中、ユーザーは過去の交際で失敗原因となった行動を、あえて相手に対して義務として実行しなければならない】
私に課せられた義務は、『我慢せず、相手を気にかける連絡や行動をすること』。
普通の恋愛市場なら、きっとまた「監視されているみたいで息が詰まる」と拒絶され、嫌われるだけの悪癖。
けれど、お互いに傷をさらけ出した練習相手としてなら。お互いに期待値がマイナス百点から始まる、ビジネスライクなリハビリなら、私のこの歪みも、相手の迷惑にはならないかもしれない。
私は祈るような心地で、同意のボタンをタップした。
◇
同じ時刻。
長谷川律もまた、静まり返った自室のデスクで、椎名紡のプロフィール画面を見つめていた。
『ユーザーID:椎名 紡(三十四歳)』
『サレ履歴:元婚約者の不貞、および婚約破棄』
『トラウマ度:クラスAA』
『警戒アラート:一途さの暴走、および行動境界線の喪失』
元彼に「気遣いが重くて息が詰まる」と言われ、裏切られた女性。
画面から滲み出てくるような彼女の痛みに、律の胸に静かな、けれど強烈な共感が広がっていく。
相手を想うあまりの純粋な行動を、重いと切り捨てられてしまった彼女。
過剰に尽くして相手を退屈させたと思い込んでいる僕の、ちょうど対極にいるピースのようだった。
律への義務は、『セーブせず、相手を気遣う行動をすること』。
もうこれ以上、僕の独りよがりな優しさで、誰かの人間性をダメにしたくはない。誰かを不幸にしたくはない。
けれど、最初から恋を目的としない、お互いへの期待ゼロの練習なら。彼女を傷つけることなく、僕のこの尽くし癖をぶつけることができるだろうか。
律はそっと息を吐き、渇いた音を立てて画面をタップした。
二人の止まっていた時間が、アプリのシステムを免罪符にして、静かに動き始める。
◇
週末の午後。
指定された都内のホテルのティーラウンジには、ピアノの柔らかな生演奏が低く流れていた。
高い天井から降り注ぐ陽光と、磨き上げられた大理石の床。大人の落ち着いた空間は、今の私たちの緊張感をさらに高めるのには十分すぎた。
私は約束の二十分前にはラウンジの見えるロビーに到着し、何度も深く呼吸を繰り返していた。
服装は、派手すぎず地味すぎないオフィスカジュアル。髪も丁寧に整えた。
すべては「相手に不快感を与えないため」、そして「重いと思われないため」の自衛の武装だった。
自分の呼吸音すら他人の迷惑になるのではないかと脳内で検閲しながら、私は静かに案内を待った。
一方、律は三十分前にすでに席に着いていた。
仕立ての良いモノトーンのシャツの袖を整え、ハンカチの折り目を確認する。
テーブルの上に置かれたメニューやナプキン、水のグラス。
これまでの彼なら、相手が座りやすいように椅子を引いたり、メニューを最も見やすい角度に直したりしていただろう。
けれど今の律は、膝の上で両手を硬く握り締めていた。
(動くな。一歩引くんだ。僕が先回りして環境を整えてはいけない。それは彼女の自立を奪う過剰な尽くしだ。僕はただの、冷淡で害のない壁でいればいい)
「初めまして、椎名さん。長谷川です」
「初めまして、長谷川さん。椎名です。……今日は、お時間をいただきありがとうございます」
三十代半ばの社会人スキルをフル活用した、完璧な紳士淑女の挨拶。
お互いに柔らかな微笑みを浮かべてはいるが、その内面には、絶対に相手の領域に踏み込ませない、そして踏み込まないための鉄壁の防衛線が張り巡らされていた。
席に着いてからも、沈黙がラウンジの空気のように重く停滞する。
律は頑なにメニューに触れようとしない。
(彼女が自分でメニューを開き、自分の意志で選ぶ楽しみを奪ってはいけない。僕は何もしてはいけない)
紡もまた、鞄のストラップを指が白くなるほど強く握りしめていた。
(何か話さなきゃ。でも、『今日はお天気が良くてよかったですね』は重い? 相手の気分をコントロールしようとしてる? ダメ、大人しく黙っていよう。ロボットみたいにしていれば、絶対に嫌われないわ)
お互いを極限まで思い遣るがゆえに発生する、大人の空回りの沈黙。
空気はどこまでも張り詰め、期待値はマイナス百点のまま、静かに時間が過ぎていく。
その時だった。
ふと、天井のダクトから、かすかに冷たい空調の風が吹き下ろした。
紡の薄手のカーディガンの襟元が、頼りなげにわずかに揺れる。
紡自身すら気づかないほど一瞬、彼女の肩が寒さを堪えるように小さく内側にすくんだ。
律の目が、その小さな変化を捉えてしまった。
頭の中の理性は、猛烈な勢いで警告を発する。
(気づかなかったことにしろ。余計なお世話だ。一歩引くんだ、律)
けれど、三十五年かけて彼の血肉に染み付いた『優しさMAX』の行動原理は、脳内のブレーキを引きちぎって暴走した。
喉が渇いている人に、考えるよりも先に水を手渡してしまうように、彼の唇が自然と動いていた。
「あの、椎名さん」
律は、驚くほど穏やかで、包み込むような丁寧な声を紡に向けた。
「そちらの席、空調の風が直接当たって寒くありませんか? 僕の席は風が来ないようです。よろしければ、席を代わりましょうか」
一切の裏も、下心も、見返りを求める計算もない。
出会って最初の数分、完璧に自衛していたはずの隙間から滑り込んできた、あまりにも純粋な気遣い。
紡は息を呑み、弾かれたように目を見開いた。
私が何も言っていないのに。迷惑をかけないようにと、これほど頑なに心を隠して縮こまっていたのに。
かつて「重い」と私を切り捨てた世界の中で、この人はどうして、私の小さな痛みをこんなにも優しく、一瞬で見つけてくれるのだろう。
お互いが絶対に崩さないと誓ったはずの、自己規制と自己検閲の壁。
それが、出会った最初の瞬間に、あまりの心地よさに静かに融解し始めていた。




