第2話「見失った境界線」
二〇二五年、冬。
週末の夜、駅前の喧騒から少し離れたカフェの片隅。
目の前に座る彼の顔は、驚くほど冷え切っていた。
スマホの画面に残された、見知らぬ女性との親密なやり取り。
確実な浮気の証拠を目の前に突きつけられてもなお、私は彼を激しく責め立てることができなかった。
「……私の、何がいけなかったの? どうして、こうなっちゃったの?」
喉の奥から絞り出した声は、情けないほどおどおどと震えていた。
傷ついているはずなのに、どうしても彼の顔色を窺ってしまう。
そんな私の態度を見て、彼は居直るように深くため息をついた。
「お前のそういう、毎日『今どこ?』とか『気をつけて帰ってね』とか言ってくる気遣いが重いんだよ。監視されてるみたいで、ずっと息が詰まりそうだった。……だから俺だって、外に癒やしを求めたんだ。お前が俺を追い詰めたんだからな」
ガタ、と椅子を鳴らして彼は立ち上がり、一度も振り返ることなく去っていった。
机の上にぽつんと残された、冷え切ったふたつのカップ。
純粋な好意のつもりだった。
彼を想うからこその、当たり前の心配だと思っていた。
けれど、私のその行動が、彼を息苦しくさせ、裏切りへと走らせた。
――普通って、どこからが『普通の心配』で、どこからが『迷惑な束縛』なの?
他人との境界線が完全に分からなくなった私は、暗い海の底へ深く沈んでいくような絶望の中にいた。
◇
あれから、ちょうど一年が経った。
三十四歳になった私は、WEBディレクターとして、冷静に淡々と仕事をこなす毎日を送っている。
幸いにも仕事は忙しく、余計なことを考えて心を乱される時間は、今の私にはほとんどなかった。
本当は、人を思いやることが好きだった。一途に、真っ直ぐに誰かを見つめていたかった。
けれど今の私は、自分のすべての発言や行動を、異常なほど厳重に『検閲』している。
「はぁ、またバグか……。今日中に終わるかな、これ」
数メートル先のデスクで、同僚の男性社員が頭を抱えて残業していた。
かつての私なら、「体調は大丈夫ですか? 差し入れです」と、迷わず温かい栄養ドリンクでも手渡していただろう。
けれど、今の私は動かない。
すぐに脳内の検閲官が、激しい警告音を鳴らすからだ。
(ダメ。そんな連絡をしたら、また『重い』って思われる。夜遅くにプライベートな心配なんて、監視されてるみたいで迷惑に決まっているわ)
私はすっと視線を落とし、ロボットのように無表情のまま、ビジネスチャットの画面を開いた。
『椎名です。案件の進捗データを、共有フォルダに格納しました。ご確認をお願いします』
必要最低限の、冷徹なまでの業務連絡だけを送信する。
自分の『重さ』を完全に封印するための、痛々しい自己防衛。
誰の迷惑にもならない代わりに、誰の心にも触れない。それでいい、と自分に言い聞かせていた。
◇
金曜日の夜。
しんと静まり返った賃貸マンションの部屋に、一人で帰宅する。
テレビもつけず、ソファに腰掛けてスマホの画面を眺めた。
友人や家族からのメッセージがいくつか届いている。けれど、私の返信はすべて「了解です」「ありがとうございます」の一言だけで終わっていた。
嫌われたくない。迷惑だと思われたくない。
その恐怖が肥大化した結果、私は誰の心にも踏み込めない、冷たいロボットのようになってしまっていた。
本当は、誰かを一途に想いたい。
本当は、誰かと他愛のない連絡をたくさん取り合いたい。
胸の奥にはまだ、押し殺した熱が確かに残っている。けれど、境界線が分からないから、一歩も動けない。
孤独に耐えかねて画面をスクロールしていたとき、偶然、ネットの隅にある広告が目に飛び込んできた。
『Re-Start』
――審査制・元サレ側限定、心の傷リハビリマッチングアプリ。
入会には、パートナーから手酷い裏切りを受けたという明確な証明が必要となる、風変わりなサービス。普通の婚活とは違い、「もう一度、異性を信じるためのリハビリ相手」を探す場所。
「リハビリ……」
その言葉が、私の歪んだ心に深く突き刺さる。
普通の出会いの場に行けば、私の気遣いはまた『重い』と拒絶されるかもしれない。
けれど、同じようにサレた傷を持つ相手となら。「これはリハビリの練習だから」と割り切ることで、少しは自分を出せるだろうか。
もう一度だけ、誰かを大切にしてみたい。
私は震える指で、一年前の婚約破棄にまつわる慰謝料の合意書データを添付した。
怯えながらも、私は審査申請のボタンを、そっとタップした。




