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三ヶ月限定の逆療法〜「尽くしすぎ」と「重すぎる」を解禁したら、お互いにとっての理想の溺愛になりました〜  作者: 寝不足魔王


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第1話「過ぎた優しさの終着点」


 二〇二五年、冬。


 ダイニングテーブルの上に置かれた一枚の紙が、部屋の明かりを冷たく反射していた。


 緑色の枠線。

 婚姻届と同じ形をしながら、全く逆の役割を持つ書類。

 その右半分には、見慣れた文字で妻の、いいえ、元妻の名前が綺麗に記されている。


「ごめんね、律」


 荷造りをすべて終え、コートを羽織った彼女がぽつりと言った。ひどく静かな声だった。

 浮気が発覚してから今日まで、激しい罵り合いも、泥沼の修羅場も一度としてなかった。ただ、冷え切った冬の空気のような沈黙だけが、私たち二人の間に横たわっていた。


「いいえ。夜は冷え込みますから、気をつけて。……これ、温かいお茶です。タクシーが来るまで、少しでも体を温めてください」


 僕はキッチンからマグカップを運び、彼女の前にそっと置いた。


 自分の人生をめちゃくちゃにした女性に対して、かける言葉ではなかったかもしれない。けれど、冷え切った彼女の手元を見て、放っておくことなど僕にはできなかった。


 彼女はマグカップを見つめ、それから耐えかねたように顔を覆って涙を流した。


「……そういうところ。そういうところが、本当に苦しかったの」


 絞り出すような声が、静かな部屋に響く。


「律は優しすぎる。何でも許して、何でも先回りしてくれちゃうから、私は何もしなくていいお人形になったみたいだった。あなたの隣にいると、自分がどんどん甘やかされて、ダメな人間に腐っていくみたいで怖かった。……私の浮気は、律のその優しさに殺された結果だよ。お願いだから、もう私をこれ以上惨めにさせないで」


 彼女は一口もお茶を口にすることなく、逃げるように部屋を飛び出していった。

 パタン、と軽い音を立ててドアが閉まる。


 命を削るようにして注いできた僕の献身が、僕の優しさが、最も愛した人を退屈させ、罪へと追い詰め、不幸にした。


 ――僕の優しさは、他人をダメにする毒だ。


 誰もいないリビングで、僕はいつまでも、温かいまま湯気を立てる二つのマグカップを見つめていた。


 ◇


 あれから、ちょうど一年が経った。


 三十五歳になった僕は、中堅の設計事務所で、相変わらず図面と向き合う日々を送っている。徹夜の続く激務は、余計なことを考えずに済むため、今の僕にはちょうどいい救いだった。


 根っこにある性分というのは、そう簡単に変わるものではない。

 オフィスを見渡せば、誰が何を求めているのか、どの書類が滞っているのか、手に取るように分かってしまう。


「うわ、これ重……。一回じゃ無理か」


 数メートル先で、後輩の女性社員が分厚い資料の山を抱え、ふらついていた。


 かつての僕なら、考えるよりも先に体が動き、笑顔でその荷物をすべて奪い取って目的地まで運んでいただろう。


 けれど、今の僕は動かない。胸の奥から湧き上がる『手伝いたい』という強烈な衝動に、無理やり鍵をかける。


 ここで僕が手を貸せば、彼女の成長を妨げる。僕の過剰な甘やかしが、また誰かをダメにしてしまう。


「その資料、無理に運ぶと腰を痛めますよ。あそこの棚の陰に台車がありますから、それを使うといい」


 冷徹に聞こえるかもしれない。冷たい先輩だと思われたかもしれない。


「あ、長谷川先輩。ありがとうございます! そうします!」


 台車を引きに走る彼女の背中を見送りながら、僕はそっと息を吐いた。


 これでいい。一歩引くんだ。他人の領域に踏み込んではいけない。僕は僕の毒を、他人に振り撒いてはいけないのだから。


 ◇


「それにしても、長谷川は本当に大人の余裕があるっていうか、紳士だよな」


 金曜日の夜。にぎやかな居酒屋の席で、同僚の男がジョッキを片手に僕を小突いた。


「いつも一歩引いてさ、相手の自立を尊重してるだろ? 若い子たちを甘やかさない教育方針、俺も見習いたいわ」


「……ただの放任ですよ」


 僕は愛想笑いを浮かべ、ウーロン茶を口に含んだ。


 紳士、と他人は言う。けれど僕は心の中で、そんな自分を激しく嘲笑していた。


 本当は、同僚たちのグラスが空いていることも、注文が滞っていることも、全部気づいている。けれど、動けない。誰かを自分の優しさで不幸にすることが、何よりも恐ろしい。


 三十五歳。社会的な立場もつき、周囲からは落ち着いた大人に見られている。

 けれどその実態は、過去の傷に怯え、誰とも深い関係を築けなくなっただけの、空っぽの臆病者だった。


 深夜、静まり返った1LDKのマンションに帰宅する。


 ネクタイを外し、ソファに深く体を沈めると、天井の白さが妙に目に焼き付いた。このまま、誰の心にも触れず、誰の心も動かさず、孤独なまま人生を終えるのだろうか。


 寂しくない、と言えば嘘になる。

 けれど、普通の恋愛市場に出て、また誰かを傷つけるのは絶対に嫌だった。


 ふと、以前ネットの隅で見かけた、あるサービスの広告を思い出す。


『Re-Start』


 ――審査制・元サレ側限定、心の傷リハビリマッチングアプリ。


 入会には、パートナーから裏切りを受けたという明確な証明が必要となる、あまりに特殊なコミュニティ。通常の婚活とは違い、「もう一度、異性を信じるための練習相手」を探す場所。


「リハビリ、か」


 スマホを取り出し、画面に映るその文字をなぞる。


 同じように裏切られ、深い傷を負った相手となら、ビジネスライクな割り切った関係になれるかもしれない。お互いに期待をしない「練習」なら、僕の歪んだ優しさも、少しは誰かの役に立てるだろうか。


 ――もう一度、誰かと向き合ってみたい。


 胸の奥底にくすぶっていた小さな願いに突き動かされるように、僕は入会フォームを開いた。


 一年前の夜、僕を壊したあの離婚届の受理証明書をデータで添付する。


 自分の傷跡を白日の下に晒すような作業だったが、不思議と迷いはなかった。淡々と、乾いた音を立てて画面をタップし、僕は審査申請を送信した。


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