第30話「帰り道の車内、静寂のタイムリミット」
冬の短い日は驚くほど足早に傾き、海岸沿いの空は鮮やかなオレンジ色から、深い紫色が混ざり合う黄昏時へと静かに染まり始めていた。
展望デッキのベンチで交わされた、あの『次の交際相手』という律さんの優しすぎる線引きの言葉。それを胸の最も深い場所に突き刺したまま、私たちは静かに律さんのセダンの車内へと戻った。
律さんはシフトレバーに手をかけたまま、ふと私の顔を覗き込んだ。
「紡、車内が少し乾燥しているね。高速道路に乗る前に、パーキングエリアの自販機で冷たくないお水でも買ってこようか」
「あ、うん。ありがとう、律さん。じゃあ、私も一緒に行くね」
車外へ出ると、夕暮れの冷たい空気と潮風が、フレンチレストランの余熱で火照った私たちの頬を容赦なく冷やしていく。律さんは自販機の前に立つと、千円札を取り出そうとしてポケットから革の財布を開いた。
その時、彼の財布の隙間から、一枚の白く細長いレシートがのぞいているのが私の目に留まった。
それは、先週私の部屋で一円単位まで綺麗に分け合った、あの八百五十円ずつのレシートだった。律さんはそれを、まるでお守りのように大切に財布の奥へと仕舞い込んでいたのだ。
「紡、常温の水は見当たらなかったから、お茶のあたたかい方にしようか。それとも、まだココアの方がいい?」
「ううん、お茶で大丈夫だよ。……律さん、そのレシート、まだ持っててくれたんだね」
「え? ああ……これかい?」
律さんは気恥ずかしそうに指先でレシートの端をなぞり、焦げ茶色の目を柔らかく細めた。
「うん。僕にとって、誰かに尽くしてあんなに喜んでもらえた記憶は、これが初めてだったから。僕の歪んだ本性を、紡が初めて肯定してくれた証拠だからね。捨てられなくて」
そのどこまでも誠実な言葉に、私の喉の奥がキュンと切なく締め付けられる。
これほど私の一途さを求め、大切にしてくれる人は他にいないのに。このドライブが終われば、もう私たちは理由もなく連絡を取り合う正当な免罪符を失ってしまう。その現実が、冷たい缶の温もりを通して、私の胸にじりじりと痛みを刻んでいた。
◇
車はふたたびオレンジ色の街灯が灯る高速道路へと侵入し、夜の帳が下りた東京へ向かって走り出した。
東京料金所のゲートが近づき、電光掲示板の白い光がフロントガラスを冷たく照らし出す。
――ポーン。
ETCのゲートを通過した瞬間、車内に無機質な電子音が響き渡った。
その音を聴いた瞬間、律さんの身体がわずかに強張るのが見えた。彼は無意識のうちに、アクセルを踏み込む足を緩めていた。時速百キロで流れていた窓外の夜景の速度が、じわじわと八十キロ、七十キロへと落ちていく。
「律さん……? 急に遅くなったけど、どこか調子が悪いの? 疲れちゃった?」
私が助手席から覗き込むと、律さんはハンドルを握る指先に白くなるほどの力を込め、前方を見つめたまま声を震わせた。
「いや……違うんだ、紡。ただ、このゲートをくぐったら、もう本当に都内に戻ってしまうんだなと思ったら、どうしても足に力が入らなくなってしまって」
「律さん……」
「この心地いい空間を、紡と二人きりの時間を、一秒でも長く引き延ばしたくて……。無意識にスピードを落としていた。情けないよね、リハビリの壁役のくせに、こんな往生際の悪い真似をして」
どこまでも自分を悪者にして自責の沼に沈もうとする、優しさMAXの聖人。
けれど、そんな彼の不器用な執着を耳にした瞬間、私の脳内の検閲官は完全に機能を停止していた。
(寂しいって言っちゃダメ。楽しかったって、綺麗なお別れのふりをするのよ)と自分を縛り付けていたはずの理性の壁が、彼の温かい本音の前に、音を立てて崩壊していく。
「往生際が悪くなんてないよ、律さん。私だって……私だって、この高速道路がどこまでも終わらなければいいのにって、ずっと思ってるよ」
◇
車内の重苦しい沈黙を紛らわせるように、律さんはカーステレオのボリュームを少しだけ上げた。
スピーカーから流れてきたのは、皮肉にも、一途な愛の終わりと大人のすれ違いを歌う静かなバラード曲だった。
『引き止めてほしかった、あの時の一言を、君の口から聴きたかった』
切ない歌声の一節が、狭い車内の空気の中にダイレクトに染み渡っていく。
その歌詞は、あまりにも現在の私たちのサレ側のトラウマと、お互いへの狂おしいほどの本音にシンクロしすぎていた。
一年前、元彼に「お前の気遣いは重い」と切り捨てられた私。
一年前、元妻に「優しさに殺された」と離婚届を突きつけられた律さん。
お互いに、相手を自分の欲望で縛り付けてはいけない、これ以上甘えて迷惑をかけてはいけないと想い合う大人の配慮が、カーステレオの音楽に乗って、お互いの胸の痛みを激しく抉り出していく。
私は窓の外へと視線を逸らし、涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。
律さんもまた、前方の道路を見つめたまま、言葉を失って唇を強く噛み締めている。
お互いをこれほど大切に想い、傷つけたくないと願っているのに、その配慮こそが最大の障壁(内なる敵)となって、二人の未来を無慈悲に分断していく。
◇
車窓の向こうに、東京タワーの鮮やかなオレンジ色の輝きや、都心の超高層ビル群が織りなす華やかな夜景が広がり始めた。
いつもなら、律さんはその優しさMAXの行動原理で、私の自宅マンションの目の前までスマートに車を寄せて、私を送り届けてくれていただろう。
けれど今、律さんの脳内には、かつてないほどの激しい恐怖と葛藤が渦巻いていた。
(このまま彼女の部屋の前まで送ってしまったら、またあの雨の夜のように、ドアロックを解除したくなくなってしまう。これ以上、僕の執着で彼女の未来を邪魔してはいけないんだ。恵比寿の駅で、綺麗に、傷をつけずにお別れしなければ)
律さんは前方の道路を見つめたまま、ハンドルを強く握り締め、どこまでも親切で、けれど確実な「境界線」を含んだタメ口の声を響かせた。
「紡。……もうすぐ、恵比寿に着くね。今日は駅のロータリーで、お別れにしようか。その方が、紡もすぐに電車に乗れて、早くお家に帰れるからね」
その言葉を耳にした瞬間、私の喉の奥が、カッと燃えるように熱くなるのを感じた。
「……うん。そうだね、律さん。駅前なら、私もすぐに帰れるから、助かるよ」
「うん。最後の課題の報告書も、後でアプリから送っておくね」
「ありがとう。私の方からも、ちゃんと運営に完了のチェックを出しておくね」
あぇ、本当に、終わっちゃうんだ。
アプリの提示した『最終課題:価値観の共有』という大義名分を果たしてしまった今、私たちには、もう二度と理由もなく連絡を取り合える正当な免罪符(理由)は存在しない。
お互いを狂おしいほどに大切に想い、傷つけたくないと願う大人の配慮が、逆に二人の未来を無慈悲に分断していく。
都心の冷たいビル群の灯りに照らされながら、セダンの車内は、お互いの本音を完璧に隠し通した切ない沈黙に包まれていった。私たちはただ、引き返せないタイムリミットの足音を聴きながら、それぞれの胸の痛みを隠すように、静かに前方の夜の道路を見つめ固まっていた。




