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三ヶ月限定の逆療法〜「尽くしすぎ」と「重すぎる」を解禁したら、お互いにとっての理想の溺愛になりました〜  作者: 寝不足魔王


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第29話「海岸線のパラドックス、引き裂かれる未来」

 都内の喧騒を遠く離れたセダンは、波飛沫が白く弾ける冬の海岸沿いのパーキングエリアへと、滑らかに滑り込んでいった。

 車外に足を踏み出した瞬間、凍てつくような鋭い潮風が、私たちのコートの裾を激しく叩き、髪を大きく乱していく。

 目の前に広がっていたのは、冬独特のどこまでも高い青空と、水平線が一直線に世界を切り分ける、圧倒的なまでに広大な海の景色だった。


 これほど大きな世界の真ん中にぽつんと二人きりで立っていると、並んで歩く律さんとの距離の近さが、かえって生々しいほどの解像度で際立ってくる。

 私はコートのポケットの中で、自分の右手が、いつでも律さんの大きな左手に触れられる位置にあることに気づいていた。あの恵比寿の夜の、ポケットの中の深い熱量。

 けれど、打ち寄せる波の音を聴きながら、私の胸の奥では、アプリの秒針が激しく心臓を叩き続けていた。今日、この海を目の前にして『将来の具体的な価値観』を共有してしまえば、私たちのリハビリ契約は、本当の終わりへと向かってカウントダウンを始めてしまうのだから。


 ◇


 海を一望できる、遮るもののない高台の展望デッキ。

 律さんは自販機で買ってきた温かい珈琲の缶を、私の冷え切った手元へと優しく握らせてくれた。

「風が強いから、すぐに冷えちゃうね。紡、寒くないかい?」

「ううん、律さんがお隣にいてくれるから、全然寒くないよ。ありがとう、律さん」


 私は缶珈琲の温もりに縋りながら、ベンチに腰掛けた。

 スマートフォンの画面をそっと開くと、そこにはアプリ『Re-Start』からの、最後のミッションが冷徹に点滅している。

【第三期課題:将来のパートナーシップにおける、具体的な人生の価値観を開示してください】


 お互いに「これは最後の義務だから」と、心の中で都合のいい免罪符の盾を構えながら、私たちは三十代半ばの男女としての、リアルで重厚な『人生の設計図』を、静かに語り始めた。


「僕の理想のパートナーシップはね」

 律さんは冷たい潮風に焦げ茶色の目を細めながら、遠い水平線を見つめて語りだした。

「大好きな人の負担になることや、生活の不便を、僕がすべて先回りして消し去ってあげたいんだ。毎日、彼女の身体に良い美味しいご飯を作って待っていたいし、仕事で疲れたときは、何もかも僕に甘えてほしい。彼女が一歩も動かなくていいくらいに、僕の優しさのすべてで満たしてあげたいんだ」


 それは、一年前の冬に元妻から「お人形にされる、あなたの優しさに私は殺された」と全否定され、離婚届と共に捨てられた、彼の歪んだ過剰奉仕の設計図そのものだった。

 けれど、その彼の言葉を聴いた瞬間、私の胸の奥には、目眩を覚えるほどの愛おしさが爆発していた。


「それ、私の理想と、全く同じだよ……律さん」

 私は缶珈琲を強く握りしめ、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「私の理想はね、大好きな人には、今日何があったか、今どこにいるかを全部話したいの。彼を絶対に一秒も不安にさせないように、自分の行動を全部共有して、一途に、マメに愛し合いたいの。彼が困っているときは、どんなに小さなことでも先回りで全部お世話しちゃいたいんだよ」


 それもまた、一年前の冬に元彼から「監視されているみたいで重い、息が詰まる」と切り捨てられ、私の境界線を完全に狂わせた、あの一途すぎる性質の設計図だった。


 ◇


 二人の言葉が、冬の潮風の中で、パチリ、と恐ろしいほどの正確さで重なり合う。

 世間一般の恋愛市場では、相手をダメにする悪癖、あるいは息の詰まる束縛と断じられた、私たちの歪み。

 けれど、この二人の間では、凹と凸がこれ以上ないほど完璧に噛み合う、人類最高峰の相思相愛のシステム(バグ)だったのだ。


「……ねえ、律さん。私たちの理想の未来って、びっくりするくらい、ぴったり重なる、ね。もし、こんな風に愛し合えたら、きっと一秒も不安にならないね」


 私は熱の帯びたタメ口で、胸の底からの本音を伝えた。

 律さんはハッとしたように目を見開くと、愛おしさに胸をかきむしられそうになりながらも、その美しい顔に、三十五歳の分別のブレーキを限界まで踏み込んだ、寂しげな微笑みを浮かべた。


「……そうだね、紡。僕のこの重すぎる尽くし癖を、そんな風に優しい言葉で全肯定してくれる人は、世界中で君しかいないよ。……本当に、僕たちの次の交際相手になる人は、きっと世界一幸せになれるね」


「次の、交際相手……」


 その、律さんのどこまでも紳士的で、お互いを『リハビリの練習相手』として綺麗に解放してあげようとする優しすぎる言葉に、私の心臓は、鋭い氷を直接突き立てられたかのように凍りついた。


 ◇


 あぁ、そっか。長谷川さんは、本当に私のことを想ってくれているからこそ、ここで一歩引くんだ。

 私のトラウマを完全に癒やして、新しい普通の恋愛市場へ、笑顔で送り出してあげようとしてくれているんだ。

 ここで自分が「長谷川さんがいい」なんて我が儘を言ったら、彼の優しい心をアプリの『義務感』や『罪悪感』で縛り付ける、最悪の迷惑になってしまう。


(これ以上、あの人の優しさに甘えちゃダメ。最後くらい、綺麗な思い出のまま、お別れしなきゃ……)

 私は引き裂かれそうな胸の痛みを必死に抑え込み、引き攣った笑顔のまま、小さく頷いた。

「……うん、そうだね、律さん。きっと、お互いに、素敵な人と出会えるよね」


 お互いに「相手に付き合わせてはいけない」「自分の欲望で縛ってはいけない」と想い合う大人の配慮が、皮肉にも最大の障壁(内なる敵)となって、二人の未来を冷酷に切り裂いていく。

 完璧に噛み合った理想の未来を目の前に提示されながらも、これが契約の終わりを決定づける引き金であることを確信し、私たちはそれぞれの胸に消えない暗い痛みを抱えながら、白く弾ける波の向こうの、遠い水平線をただ静かに見つめ固まっていた。


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