第28話「最後の免罪符、助手席のボーダーライン」
二〇二六年、二月。
アプリ『Re-Start』の最終月プランが適用されてから、最初の土曜日の午前八時。
高い冬の青空からは遮るもののない陽光が降り注いでいたが、地上を満たす空気は肌を刺すように冷たく、吐き出す息は一瞬で真っ白に染まって消えていく。
私は待ち合わせ場所である恵比寿駅近くのロータリーに立ち、コートのポケットの中で自分の指先をぎゅっと握りしめていた。
今日から始まるのは、アプリが命じた最後のミッション――『卒業カウントダウン:丸一日がかりの遠出デート』。
この最終課題が終われば、どれほど心が惹かれ合っていようとも、システム上のチャットルームも、これまでの丁寧な日常のやり取りも、すべてが強制的に消滅してしまう。デジタルのタイムリミットが刻一刻と迫る圧倒的な恐怖が、冷たい風と共に私の胸を締め付けていた。
(最後の一ヶ月が始まっちゃった……。だったら最後くらい、完璧にリハビリをこなして、綺麗な思い出のまま、長谷川さんに迷惑をかけずに終わらせなきゃ)
私の脳内の検閲官は、ふたたび悲しい自衛の防衛線を高く築き直していた。嫌われたくないから、自分の『重さ』を必死に押し殺して、スマートな大人のふりをしてお別れする。そう心に決めてロータリーを見つめていた、その時だった。
◇
見慣れた、あの端正なセダンのヘッドライトが、滑らかにロータリーのカーブを曲がって私の目の前へと滑り込んできた。
静かに車が停車し、運転席から降りてきた律さんが、流れるような動作で助手席のドアを開けて私を迎え入れる。
「おはよう、紡。……寒かったでしょ。さあ、中に入って」
律さんは「最後だからこそ、彼女のこれからの人生を邪魔しないよう、綺麗に身を引くための完璧な壁役に徹しよう」と、昨夜から何度も自分を律していたはずだった。けれど、いざ私が助手席に腰掛けた瞬間から、彼の血肉に染み付いた過剰奉仕の衝動(優しさMAX)は、最後の免罪符に背中を押されて限界突破していた。
「紡の身長に合わせて、シートの角度とヘッドレストの位置を少しだけ調整しておいたんだ。腰が痛くなりにくいように、ランバーサポートも少し強めにしてあるよ」
それだけではなかった。センターコンソールには、私の冷えやすい体質を気遣い、お気に入りのハーブティーが最適な温度で保温水筒に入れて用意されていた。さらに、膝の上にそっと掛けられたブランケットは、今日の私のニットの衣服に毛羽がつかないよう、わざわざ新調された上質なシルク混の素材だった。
(あぁ、やっぱりこの人は、どこまでも私の先回りをしちゃうんだ……)
一年前の元彼なら、ドライブ中に少しでも眠ろうものなら「黙って助手席に乗ってるだけのくせに寝るなよ、ナビしろよ」と不機嫌に怒鳴り散らしていた。それなのに、律さんのこの、神がかった過保護な空間作り。
大切にされているという強烈な甘さに、私の心臓は破裂しそうに脈打つ。
だったら、私だって、もう我慢しない。最後の一ヶ月なら、私のこの『重さ』を全部ぶつけても、アプリの義務だから許されるはず。私はバッグを開けると、昨夜のうちに仕込んでおいた看病のお返しグッズを次々と取り出した。
「律さん、これ、運転中の眠気覚ましに……手作りのオーガニッククッキーと、目に優しいハーブの目薬。それから、手が汚れたとき用の、温かいおしぼりも作ってきたからね」
「えっ……紡、これ、全部僕のために……?」
「うん。律さんに、少しでも快適に運転してほしかったから。重かったら、ごめんね」
「重いなんてとんでもないよ。……すごく、嬉しい。なんて優しい人なんだろう、紡は」
律さんはハッとしたように目を丸くした後、世界一幸福そうな焦げ茶色の目を細めて深く微笑んだ。お互いの歪み(尽くしすぎ/重さ)が、助手席の狭い密室の中で、最高糖度の溺愛としてノーブレーキで解禁されていく。
◇
車は静かに恵比寿の街を離れ、東京料金所のゲートをくぐって、海岸沿いへと続く高速道路のなだらかな直線ルートへと侵入した。
時速百キロで流れる窓外の冬の景色。車内は、お互いが注ぎ込み合った過剰なまでの気遣い(クッキー、温かいハーブティー、最適な暖房の風)で満たされ、外の世界のノイズを完全に遮断する、完璧に居心地の良い聖域と化していた。
律さんはハンドルを握る指先に少しだけ力を込め、前方を見つめたまま、少し低くて甘いタメ口の声を響かせた。
「紡。……今日だけは、僕に世界一、君を甘やかさせて。アプリの最終課題の義務、だからね」
「うん、律さん。私も……今日だけは、世界一、律さんのことを気遣わせて、ね。……だって、最後の一ヶ月の、お互いの義務、だから」
お互いに「これはアプリの最終課題というビジネスだから、歪みをぶつけ合っているだけだ」と、三十代半ばの大人の理性が、必死に言い訳の盾を叫んでいる。
けれど、狭い助手席のディスタンスで交わされる二人の視線と、お互いを狂おしいほどに大切に想い、離したくないと願っている本心の熱量は、もうアプリのシステムなどとうに置き去りにしていた。
「卒業」への片道切符を乗せた車が、冬の青空の下、引き返せないカウントダウンの海へと向かって、切なく、どこまでも優しく速度を上げていく。私たちの最後の免罪符の時間は、もう誰にも止められない本物の恋の炎に包まれながら、静かに、加速を始めていた。




