第27話「二ヶ月目の満了、冷めない余熱のブレーキ」
二〇二六年、二月の最終週。
あの不意の高熱に浮かされた暗いワンルームで、律さんが作ってくれた昆布出汁の優しいお粥の味。そして、眠りにつく瞬間から目が覚めるその時まで、ずっと私の右手を大きな両手で包み込んでくれていた、あの圧倒的な体温の記憶。
体調が完全に回復し、職場のWEBディレクション業務に復帰してからも、それらの鮮烈な余熱は、今も私の皮膚の裏側に消えない刻印のように残り続けていた。
カタカタと、オフィスの自席でキーボードを叩く指先が、時折ふっと止まる。
液晶画面に並ぶ無機質なプログラムコードを見つめながらも、私の胸の奥は、あの看病の日に交わした生身のタメ口の響きを思い出しては、甘く、そして苦しく締め付けられていた。
(これはもう、アプリの『義務』なんて言い訳、私たちの間には一ミリも通用しない……)
嫌われるのが怖くて、心を冷たいロボットにして自衛してきた一年間。その強固だったはずの自己検閲の鎖は、長谷川律という一人の男性の底のない溺愛によって、もう完全に溶かし尽くされていた。
◇
同じ頃、夕闇に包まれ始めた設計事務所の自席で、律もまた、広げられた大型商業施設の図面を前にして、深く、深い息を吐き出していた。
デスクライトの青白い光に照らされた彼の右手は、シャープペンを握ったまま、じっと動かずにいる。
あの深夜の凍てつくようなベランダで、冷たい缶コーヒーを頬に押し当てながら誓った、一生の覚悟。
『紡が僕のこの歪んだ性質を必要としてくれるなら、僕は一生をかけて、この人を誰よりも重く愛し抜く悪魔にだってなってやる』
胸の最深部に刻み込んだその言葉の重さに、律は己の魂が激しく焦がされているのを自覚していた。彼女の一途すぎる行動報告(重さ)が、元妻の嘘に病んだ自分の心を救ってくれた。だからこそ、今度は僕のすべてを捧げて、彼女を世界一の幸せで満たしてあげたい。
お互いに、相手が自分の人生にとって、もう失うことのできない唯一無二の存在であることを確信していた。
しかし、三十代半ばの社会人としての分別と、過去の凄惨なサレ履歴という名の『内なる敵』は、私たちの関係がビジネスの檻を抜け出そうとしたまさにその瞬間に、かつてないほど冷酷で強烈なブレーキを踏み込んできた。
◇
金曜日の夜、二十一時。
しんと静まり返った自宅のソファで、私が温かい紅茶を片手にスマートフォンを開いた、その時だった。
――チカリン。
部屋の静寂を切り裂いて灯った画面には、アプリ『Re-Start』の運営から届いた、一つの無機質な通知がポップアップしていた。
白く発光する画面に表示されたのは、二ヶ月目の終わりを告げる冷徹な文字列だった。
【第二期(二ヶ月目)リハビリプラン完了報告書】
【ステータス:双方の警戒アラート:完全解除を確認】
【リハビリ進捗:心理的・物理的境界線の開放、および生身の本音開示を正常に達成。これより、最終月(三ヶ月目)の移行プロセスへと入ります】
レポートの末尾に刻まれた『残り一ヶ月』というデジタルの数字を目にした瞬間、私の心臓は、冷たい氷水を直接注ぎ込まれたかのように、鋭い音を立てて凍りついた。
(あぁ、そっか……。もう、二ヶ月が終わっちゃったんだ……)
胸の奥から、どろりとした暗い引き際がせり上がってくる。長谷川さんはこの二ヶ月間、私のマメすぎる連絡や、高熱のときの過保護な看病という、普通の男性なら『重くて息が詰まる』と拒絶する悪癖に、リハビリの『契約パートナー』としての義務があるから、完璧に、優しく付き合ってくれただけ。
(契約が終わって免罪符がなくなれば、私はまた、あの人に迷惑をかけるだけのただの『重い女』に戻ってしまう。これ以上、あの人の底のない善意に甘えて、長谷川さんの優しい心を搾取しちゃ絶対にダメよ、紡)
私はスマートフォンを胸に強く抱きしめ、静かに涙を溢れさせた。傷つかないための防衛手段として、私は自分から綺麗に身を引く準備をしなければならないと、悲しい決意を固めていた。
◇
同じ時刻、自室の書斎で画面を見つめていた律もまた、その完了報告書の前で、絶望的なまでの自責のロジックに囚われていた。
(彼女の心の傷は、この二ヶ月間で綺麗に癒えた。……だとしたら、僕の役割は、もうすぐ終わりだ)
律は液晶画面を睨みつけたまま、指先が白くなるほど強く拳を握り締めた。
ここで僕が個人的な欲望に流されて『好きだ』と告白し、彼女を引き止めてしまったら、それは一年前の元妻の時と同じだ。彼女をアプリの『義務感』や『断れない罪悪感』で縛り付け、僕の過剰な尽くしのなかに囲い込むだけのエゴになってしまう。彼女が本当に前を向いて歩き出すためには、僕はリハビリの壁役として、綺麗に彼女を解放してあげるべきなんだ。
お互いを狂おしいほどに大切に想うがゆえに、自分から一歩引いて、迷惑をかけずにお別れしようとする、大人の切なすぎるすれ違い。
私たちが胸を締め付けられるような悲しい決意を固め、スマートフォンを閉じようとした、まさにその瞬間だった。
――ヴヴヴヴヴ、ヴヴヴヴヴ。
画面が突如として自動的に暗転し、最終月(三ヶ月目)の始まりを告げる、これまでで最も重厚な、漆黒のバナーが灯り響いた。
【第三期(三ヶ月目)最終リハビリプラン:卒業カウントダウン】
【最終課題:丸一日がかりの遠出デート、および将来のパートナーシップにおける『具体的な価値観』の相互開示】
【注意:本課題の完了をもって、ユーザー間のすべての契約およびチャットルームは強制閉鎖(Re-Start)となります】
「将来の、具体的な、価値観……?」
私はスマートフォンの前で、息を呑んで完全にフリーズした。
それはつまり、結婚や、その先の人生の選択を、お互いの歪み(尽くしすぎ/重さ)を乗せたまま、最後の免罪符としてぶつけ合えという、アプリからの残酷なまでの最終宣告だった。
(これで、本当に最後なんだ……)
同じ時刻、律もまた、暗い部屋の中で画面を見つめたまま息を詰まらせていた。
契約のタイムリミットが目前に迫る圧倒的な恐怖と、それを遥かに超える、あまりにも残酷で糖度の高い『最終課題』への動揺。
私たちはそれぞれの暗い部屋の中で、ただ激しく高鳴り続ける心臓の音に身を焦がしながら、切ないカウントダウンの始まりを告げる液晶の光を、いつまでも見つめ固まっていた。
二ヶ月目の終わりと共に、第二章が完全に完結し、物語はいよいよ、二人の未来を賭けた最終章の扉を開こうとしていた。




