第26話「夜風の自省、檻のなかの独占欲」
カチャ、とわずかに響いた金属音。
私はベッドの中で、その音を鼓膜の奥底で聞いていた。
お粥を食べ終え、律さんが持ってきてくれた薬を飲み干した後、急激に襲ってきた深い睡魔のベールに包まれながら、私は微睡みの隙間から彼の背中を眺めていた。
律さんは、一口コンロしかない狭いキッチンに立ち、大柄な身体を窮屈そうに丸めながら、驚くほど静かな手つきで片手鍋を洗っていた。
洗剤の泡をきれいに水で流し、テフロン加工の剥げかけた鍋のフチを、吸水性の良いキッチンペーパーで一点の曇りもないように拭き上げていく。
さらに、テーブルの上に残された白磁の匙や、お盆の上のわずかな水滴まで、まるで精密な図面を修正するかのような几帳面さで、丁寧に、完璧に元の状態へと戻していた。
(あぁ、本当に綺麗にしてくれちゃうんだな……)
熱で火照った頭の片隅で、私はそんなことを考えていた。
一年前の元彼なら、私が寝込んでいようがお構いなしに「シンクに洗い物溜まってるぞ」と不機嫌そうにテレビを見続けていた。それなのに、律さんは私が何も言わなくても、全ての不便を先回りして消し去ってくれる。
その徹底した、底のない優しさに包まれている安心感の中で、私の意識はゆっくりと、心地よい闇の中へと沈み込んでいった。
◇
シンクのステンレスを完全に拭き上げ、生ゴミの袋を小さく縛ってゴミ箱の隅へ収める。
長谷川律は、すべての作業を終えて静かに息を吐き出すと、音を立てないように一歩ずつ、慎重にベッドサイドへと戻った。
中堅の建築設計士として長年培ってきた空間の感覚が、この古い賃貸マンションの木製フローリングが「どの位置で軋むか」を無意識のうちに察知し、その場所を器用に避けながら歩を進めさせていた。
ベッドの脇に置いた丸椅子に腰掛け、律は紡の寝顔をじっと見つめた。
薬がしっかりと効いてきたのだろう、彼女の呼吸は先ほどよりも確実に深く、穏やかなものへと変わっている。額に貼った冷却シートの端が、体温を吸い取ってわずかに波打っていた。
律はそっと手を伸ばし、彼女の枕元に、薬局で買ってきたスポーツドリンクのペットボトルを静かに置いた。
ボトルの表面にじわりと浮き出てきた細かな結露の雫が、彼女の寝具を濡らしてしまわないよう、自分のポケットから取り出した清潔なハンカチを四つ折りにし、その下に敷くことも忘れなかった。
(……可愛いな、本当に)
胸の最深部からせり上がってくる、押し潰されそうなほどの愛おしさ。
眠りにつく直前、熱に浮かされた彼女が僕のニットの袖口を驚くほどの力でぎゅっと掴み締めながら放った、『どこにも、行かないでね』という掠れたタメ口の声。その指先の湿った温もりが、今も律の右腕の皮膚に、消えない刻印のように焼き付いて離れなかった。
ずっとこの人の傍にいたい。この小さな手を、一生僕の手の中で守り抜きたい。
そう願った瞬間、律の心臓は、まるでコンペの締め切り直前のような、警鐘に似た激しい拍動を刻み始めた。
この狭いワンルームに満ちている彼女の気配と、自分自身の内側から溢れ出そうになっている歪んだ独占欲。その熱量に、彼は強い恐怖を覚えていた。
◇
このままこの部屋に、彼女のすぐ近くにいたら、自分の理性が完全に狂って破壊されてしまう。
そう本能で察知した律は、立ち上がり、足音を完全に消したままガラスサッシへと向かった。
深夜二時を回り、外の道路を走る車の音は完全に途絶えている。遠くの幹線道路から時折聞こえる微かなロードノイズだけが、この部屋の圧倒的な静寂を際立たせていた。
律はサッシを数センチだけ滑らせ、身体を滑り込ませるようにしてベランダの外へと出た。
冷たい風がカーテンの裾を小さく揺らし、すぐにパチリとサッシが閉まる。
ひんやりとした冬の凍てつくような深夜の夜風が、容赦なく律の顔や首筋を撫で落としていった。
恵比寿の閑静な住宅街の夜景が、遠くの街灯の光を拾って静かに煌めいている。律は上着のポケットから、道中の自販機で買ったまま手をつけていなかった冷たい缶コーヒーを取り出すと、それを自分の熱く火照った右の頬へと強く押し当てた。
冷徹な金属の冷たさが皮膚を通して脳へと伝わり、混濁しかけていた思考を無理やり引き戻していく。
手すりに冷え切った両手をかけ、律は暗闇の中で激しい自己嫌悪の泥沼へと沈み込んでいった。
(僕はまた、一年前と同じ過ちを、この手で繰り返そうとしているんじゃないのか?)
脳内を支配するのは、一年前の冬、あの冷え切ったリビングで元妻から放たれた残酷な言葉の細部だった。
オレンジ色の薄暗いペンダントライトの下、荷造りを終えてベージュのコートを着た元妻が、泣きながら僕を見上げて言ったあのセリフ。
『律の完璧な家事が、僕の先回りの優しさが、私をずっと監視しているみたいで息が詰まったの。何でも許して、何でもやってくれちゃうから、私はお人形になったみたいだった』
今、紡の部屋を完璧に片付けてしまった自分への戦録。
アプリの看病という名の絶対の義務を都合のいい免罪符にして、僕は彼女を僕の偏執的なまでの優しさで囲い込み、僕なしではいられないように甘やかしているだけじゃないのか。
一年前、最も愛した人を退屈させ、罪へと追い詰め、不幸にしてしまったあの過剰奉仕という名の『毒』。今、紡に向けているこの狂おしいほどの独占欲は、あの時と一体何が違うというんだ。
他人の領域に踏み込んではいけない。自分の本性を解禁すれば、また誰かを不幸にする。
僕は僕を強く罰しなければならない。
そうやって自戒の壁をもう一度高く築き上げようと、律は冷たいベランダの手すりを、指先が白くなるほど強く握り締めていた。
◇
身体が芯まで凍えそうになった頃、律はサッシを静かに開け、暖房の風が静かに吹くリビングへと戻った。
冷えた身体を震わせながら、ふたたびベッドの方へと視線を向けた、その時だった。
毛布の中で、紡が小さく寝返りを打った。
熱を帯びた彼女の吐き出す息が、静かな部屋の空気をわずかに揺らす。
それと同時に、彼女の右手が、さっきまで律が握り締めていた空っぽのベッドの上を、無意識に探るようにして小さく彷徨ったのだ。
何かを失くしてしまった子供のように、彼女の眉間に微かな寂しげな皺が寄る。
「……紡」
律は考えるよりも先に身体を動かし、ベッドサイドへ駆け寄ると、その彷徨っていた小さな手を、僕の大きな手のひらでそっと優しく包み込んだ。
まだ夜風の冷たさと、缶コーヒーの冷気が残る僕の手。
けれど、紡はその冷たさに怯えるどころか、律の手のひらに触れた瞬間に、眠ったまま「ん……」と安心したように深く、長い息を吐き出した。
そして、その愛おしい口元に微かな微笑みさえ浮かべて、ふたたび深い微睡みの底へと落ちていった。
その、律を100%信頼しきった無防備な彼女の姿を見た瞬間。
彼がベランダで頑なに築き上げようとしていた自責の壁は、音を立てて、跡形もなく融解して消え去っていった。
(……あぁ、ダメだ。一歩引くなんて、もう僕にはできそうにない)
律は彼女の手を両手でそっと握り締めながら、胸の奥で静かに自嘲した。
僕の優しさが入をダメにする毒だとしても。僕の気遣いが偏執的で、重苦しいものだとしても。
目の前にいるこの人が、僕のその歪んだ性質をこんなにも必要として、愛おしそうに受け止めてくれるなら。
僕は一生をかけて、この人を誰よりも重く愛し抜き、甘やかし続ける悪魔にだってなってやる。
これはアプリのルールだからじゃない。一時的なリハビリのバグなんかでもない。
僕は、椎名紡という一人の女性を、心の底から本気で愛してしまっている。
冬の静かなワンルーム、遠くの踏切の警報機の音が微かに響く中、彼女の優しい体温を手のひらに感じながら、律はビジネスとしての契約の檻の先にある、一生をかけた本当の誓いを、胸の奥底で静かに、けれど誰にも動かせない強固な覚悟として刻み込んでいた。




