第25話「白磁の匙(さじ)、熱を溶かすおまじない」
私の住む賃貸ワンルームのキッチンは、社会人女性の一人暮らし用としてはあまりにも手狭で、一口のガスコンロと、まな板を置けばそれだけで埋まってしまうほどの小さなステンレス製の作業スペースしか用意されていない。
そこに、三十五歳の中堅建築設計士である長谷川律という大柄な男性が、窮屈そうに少し背中を丸めながら立っていた。
彼は買ってきたばかりの大きなレジ袋から、まるで精密な図面を引くかのような正確な手つきで食材を取り出し、狭いシンクの脇に整然と並べていく。
新潟産の白米、丁寧に個別包装された最高級の昆布出汁パック、そして有機栽培された瑞々しい卵。
「やりすぎてはいけない」「過剰に甘やかして相手の人間性をダメにしてはいけない」
一年前、元妻が家を出ていく間際に放ったあの冷酷な呪いのブレーキは、今の律さんの脳内からは完全に叩き割られて消え去っていた。どうすれば熱で弱りきった紡の身体が一番喜び、内側から温まるか。彼の『優しさMAX』の行動原理は、その一点だけを純粋に、そしてある種の偏執的なまでの熱量で追求していた。
彼は私がいつも適当に使っている、フチのテフロン加工が少しだけ剥げかけた安物の片手鍋をコンロにかけると、タイマーをセットしたスマートフォンを脇に置き、火加減を「中火の弱」へとミリ単位の感覚で微調整した。
ネギの青い部分を均等の細さに刻む包丁の音が、トントン、と小気味よく、規則正しいリズムで狭い室内に響き渡る。じっくりと出汁が米に染み込み、ふつふつと小さく泡立つ片手鍋の音。小さなキッチンに立つ彼のネイビーのニットの背中は、一年前の孤独に震えていたそれではなく、目の前の女性を全力で守り抜くという、本物の男の強い覚悟の熱量に満ちあふれていた。
◇
私はベッドの中から、厚い毛布を顎のラインまで深く引き上げた状態で、自分のために一心不乱に鍋をかき混ぜてくれている律さんの大きな後ろ姿を、ただじっと見つめていた。
お粥を炊く蒸気と共に、ふんわりと優しく漂ってきた上品な昆布の香りが、ワンルームの冷え切っていた壁や床をじんわりと、確実に温めていく。
(あぁ、本当に夢じゃないんだ……。私、本当に、この人に看病してもらっているんだ)
一年前、元彼と付き合っていたときに同じような高熱を出しても「風邪のときくらい自分で近くのコンビニ行けよ。うつされたら仕事に響くし、自己管理能力がなさすぎるんだよ」と冷たく突き放され、一人きりで暖房も効かない暗い部屋に放置されていたあの痛々しい孤独の記憶。その凍りついていた過去の景色が、今、目の前にある信じられないほど温かい現実のなかで、音を立てて完全に上書きされて消え去っていくのを感じていた。
「紡、お待たせ。熱いうちに、少しでもいいから食べてね」
律さんは静かにスープボウルをお盆に載せてベッドサイドへ運んでくると、私の身体を支えるようにそっと起こし、背中に自分の上着を丸めてクッション代わりに優しく当ててくれた。どこまでもスマートで、私の不快感をすべて先回りして取り除いてくれる気遣いの達人。
「……あのね、紡。本当は自分で食べた方が気楽だと思うんだ。でも、手がすごく震えているし、アプリの課題には【過剰奉仕の全解禁】ってあるから。……その、僕に、あー、させてくれないかな。君が嫌じゃなければ、なんだけど」
律さんはまるで十代の純情な少年のように、顔を耳の裏まで真っ赤に染めながら、白磁の匙でお粥をそっとすくい、ふーふーと何度も自身の唇を尖らせて優しく息を吹きかけて冷ました。その真剣な眼差しには、一欠片の不純な動機も混ざっていない。彼は本気で、私のすべてを甘やかし、全肯定することにその命を捧げようとしているかのように、優しくお粥を差し出してきた。
◇
「あー」とされるなんて、普通の分別のある三十代の大人同士の付き合いなら、重すぎる、過保護すぎると恥ずかしくなって拒絶してしまう場面かもしれない。
けれど、私はアプリの『受け入れの義務』という最高に都合の良い免罪符を心の盾にして、熱で真っ赤に火照った口元を、恐る恐る、小さく開いた。
そっと口の中に滑り込んできた、驚くほど優しくて滋味深い味わい。白だしと、ほんの少しの塩、そして昆布の香りが完璧に調和したお粥が、乾ききった私の身体の芯にまで染み渡っていく。
一年前、元彼が風邪をひいたときに私が作った出汁の味を「重い、味付けがうるさい、お前の気遣いはいつも押し付けがましいんだよ」と捨てられたあの記憶。それとは全く違う、私の存在そのものを丸ごと肯定してくれるような優しい味がした。
そのあまりの温かさと、大切にされているという圧倒的な実感に、私の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出してシーツを濡らした。
「ごめん! 熱かった!? それとも、あるいは味が薄すぎたかな……っ」
律さんは一瞬でパニックになり、スプーンを持ったまま慌てて顔を近づけてきた。
私は首を横に振り、彼のニットの袖口を、熱で震える小さな指先でぎゅっと強く掴み締めた。
「ううん、違うの……すごく、美味しい。本当に美味しいよ、律さん。……私ね、こんなに誰かに優しくしてもらったの、生まれて初めてだから……嬉しくて、涙が出ちゃうんだよ」
「紡……。謝らないで、僕の方こそ、紡がそんなに喜んで食べてくれて、心が救われているんだ。僕のこの過剰な尽くし癖を、君が全部、優しい笑顔で受け止めてくれるから。君の前だと、僕は僕のままでいていいんだって思えるんだ」
律さんは愛おしそうに静かに目を細めると、私の涙をそっと拭うように、大きな手のひらで私の頬を優しく包み込んでくれた。彼の高い体温が、熱で火照った私の肌に、心地よいおまじないのように優しく馴染んでいく。
◇
お粥を綺麗に完食し、律さんが持ってきてくれた冷たい冷却シートを額に丁寧に貼ってもらう。
私の額を優しく触る彼の大きな手のひらの適度な冷たさが、今の私には何よりも心地よかった。
「律さん……ありがとう。なんだか、お粥を食べたら、熱が下がってきた気がするよ」
「それは良かった。さあ、薬を飲んで、もう一度ゆっくり眠ろう。目が覚めたときも、まだ僕は隣にいるからね」
「うん……どこにも、行かないでね」
「どこにも行かないよ。紡が元気になるまで、ずっとここにいる。だから安心して目を閉じて」
律さんは私の手を大きな両手で優しく包み込み、ベッドの脇の丸椅子に腰掛けて、どこまでも真っ直ぐな瞳で微笑んでくれた。冷たいお水のグラスをそっと枕元へ置いてくれる彼の動作には、一瞬の澱みもなかった。
薬の睡魔に誘われ、彼の大きな手の圧倒的な温もりに守られながら、私はふたたび心地よい微睡みの海へと深く落ちていった。
お互いに「これはアプリの看病リハビリという義務だから」と自分に言い訳をしている。けれど、繋がれた手の圧倒的な熱量と、お互いを見つめる瞳に宿る狂おしいほどの独占欲は、もはや契約という名の檻を完全に焼き尽くしていた。
世間では悪癖と言われた二人の歪んだ性質が、この冷え切ったワンルームの中では、世界一優しいおまじないとしてパチリと溶け合う。私たちはそれぞれの場所で、もう元の孤独には二度と戻れないことを確信しながら、引き返せない最高の溺愛の沼の奥底へと、さらに深く、濃密に溺れ始めていた。




