第24話「不意の暗転、看病という名の特権」
二〇二六年、冬。
あの激しい雨の夜、外の世界のあらゆるノイズを完全に遮断する車内という名のシェルターの中で、ドアロックの解除を数秒だけ躊躇うという律さんの熱い執着に触れた。私の服の袖を掴む『重さ』を丸ごと抱きしめてもらったあの夜から、数日が経過していた。
ハプニングは、そんな甘い熱の余韻を引きずったまま迎えた、翌週の平日の朝に起きた。
「う……あたまが、痛い……」
けたたましく鳴り響くスマートフォンのアラーム音で目を覚ました瞬間、私は自分の身体がまるでおぞましい鉛の塊にでもなってしまったかのような、凄まじい重圧に襲われていた。
寝返りを打とうとするだけで視界がぐわぐわと不規則に回転し、頭の奥底が心臓の激しい鼓動と完全に同期して、ズキン、ズキンと裂けるように脈打っている。喉は内側から焼け付くように干からびていて、まともに声を出すことすらできない。
あの雨の夜、オフィスビルのエントランスで傘を持たずに立ち往生し、冷たい夜風に長い時間晒され続けてしまった代償は、あまりにも分かりやすい高熱となって、私の身体を内側から完全に侵食していた。
脇に挟んだ体温計が長い電子音を鳴らす。
重い瞼を無理やり開けて液晶画面に浮かび上がった数字を確認すると、そこには三十八度五分という、大人になってからは見たこともないような凶悪な数字が灯っていた。
私は震える手で会社の上司へ欠勤の連絡を入れるメールをなんとか作成して送信し、シーツの中にふたたび力なく倒れ込んだ。
薄暗い天井を見上げながら、私はスマートフォンを両手で握りしめたまま、激しい自己検閲の泥沼に囚われていた。
(ダメよ、紡。長谷川さんに体調不良なんて連絡しちゃ絶対にダメ。そんなことを送ったら、暗に『心配して看病しに来て』って催促しているみたいで、絶対にうっとうしいと思われるわ。一年前、元彼と付き合っていたときに風邪をひいて『熱が出ちゃった』って連絡したら、『自己管理能力がなさすぎる。俺にうつすなよ』って冷たく放置されたじゃない……)
拒絶される恐怖が、熱で朦朧とする私の胸をさらに苦しく締め付ける。
普通の恋愛市場なら、相手の貴重な時間を奪う最低の依存行為。自分のこの一途さをまたしても害悪だと呪った私は、律さんへの連絡を頑なに拒み、一人きりの暗いワンルームで、ただ寒さにガタガタと震えながら毛布にくるまることしかできなかった。
枕元で静まり返ったスマートフォンが、世界から取り残されたような圧倒的な孤独を際立たせていた。
「寒い……くるしいよ……」
意識の混濁する中で、私は小さく呟くことしかできなかった。一年前のあの夜、暗い部屋で一人、冷え切った身体を抱きしめていた記憶が、今の熱の苦しさと重なって脳内を支配していく。誰も助けてくれない、誰も私の心配なんてしてくれない。そうやって心をロボットにして自衛してきたはずなのに、高熱に侵された身体は、あの恵比寿の夜の、コートのポケットの中で深く結び合った律さんの大きな手のひらの温もりを、狂おしいほどに求めていた。
◇
午前十時。
同じ時刻、賑やかな設計事務所のデスクで最新の建築図面を引いていた長谷川律のスマートフォンが、突如として、これまで一度も聴いたことのない激しく、執拗なパターンで専用の警告アラート音を鳴り響かせた。
ハッとして画面を覗き込んだ律の焦げ茶色の瞳が、驚愕に見開かれる。
そこには、アプリ『Re-Start』の健康管理システムが、紡のスマートウォッチのデータと連携して自動検閲した、無機質な緊急通知が表示されていた。
【アラート:椎名紡ユーザーの身体異常(高熱による急激な活動停止状態)を検知しました。第二期規約に基づき、マッチングパートナーは速やかに救護・看病リハビリを行ってください】
画面に躍る『高熱で倒れた』という文字を目にした瞬間、律の脳内にあるすべての自責のブレーキは、木っ端微塵に叩き割られて暴走を始めていた。
(紡さんが倒れた……!? あの一途で不器用な彼女が、誰もいないあの狭いワンルームで、一人きりで苦しんでいるのか?)
一年前、元妻が「体調不良で実家に泊まる」という嘘を吐き、それが全て別の男との不貞の隠れ蓑だったという暗いトラウマが、律の胸をよぎる。けれど、今の紡への狂おしいほどの愛おしさは、そんな過去の泥沼など一瞬で消し飛ばすほどの熱量を持っていた。
彼女は嘘を吐かない。今、本当に僕を必要としてくれている。
「すみません、急用ができたので、本日は半休をいただきます!」
律は上司の返事を待つこともなく、手元の図面を放り出すと、コートを掴んで事務所を飛び出した。
車を走らせ、紡のマンションの近くにある大型薬局とスーパーへ滑り込む。
「スポーツドリンクに、冷却シート、それから消化に良いおかゆの材料……あぁ、ゼリーも必要か。寒がっているかもしれないから、使い捨てのカイロも多めに買っておこう。それから、簡単に口にできる果物も……」
律はパニックになりながら、彼女に少しでも快適に過ごしてもらうため、自分の過剰な『尽くし体質(優しさMAX)』のすべてを解放した。カゴから溢れんばかりの看病グッズを買い漁り、重いレジ袋をいくつも両手に抱えて、彼女の部屋へと車を急がせた。
一歩間違えれば相手の領域を侵す毒になる。そう自戒してきたはずの理性の壁は、彼女の危機を前に、跡形もなく崩壊していた。
「早く、一秒でも早く彼女の元へ行かなければ……」
ハンドルを握る律の手には、じっとりと焦りの汗が滲んでいた。赤信号で車が止まるたび、メーターの時計を見つめ、胸の鼓動がうるさいほどに高鳴る。かつて誰かを甘やかすことを悪と定義し、一歩引くことで自分を罰してきた日々。けれど、今の彼を突き動かしているのは、義務の免罪符なんかじゃない。ただ、冷え切った部屋で一人震えているであろう紡を、この手で抱きしめ、温めてあげたいという、本物の男の強い執着そのものだった。
◇
午後一時。
意識が混濁し、熱の暑さと寒さの狭間で激しく息を切らせていた私の耳に、ピンポーン、と静かな部屋の空気が震えるインターホンの音が鳴り響いた。
(え……? 誰……? 会社の人……?)
私は這うような動作でベッドから抜け出し、壁に手を突きながら、なんとか玄関のドアの前までたどり着いた。重い鍵を開け、ゆっくりとドアを開く。
眩しい冬の光のなかに立っていたのは、大きなレジ袋を両手にいくつも抱え、前髪を額に張り付かせながら少し肩を息で上下させている、律さんの姿だった。
「紡……! ごめん、事前に連絡もせず、急に押しかけてしまって。通知を見て、心配でたまらなくなって……迷惑、だったかな。具合が悪いのに、無理に玄関まで来させてしまって本当にごめんなさい」
「律、さん……? どうして、ここに……」
律さんは私の真っ赤に火照った顔と、今にも倒れそうな足元を見て、本気で「自分の強引な訪問が彼女を怯えさせたのではないか」「負担をかけてしまった」と痛々しげに眉を下げて自責していた。
けれど、熱の苦しさと圧倒的な孤独の中で、世界の隅に置き去りにされたような絶望を味わっていた私にとって、その律さんの『仕事すら放り出して駆けつけてくれた過剰な看病』こそが、脳の芯まで蕩けてしまいそうなほどの、極上の溺愛の証明だった。
「ううん、違うの……! 律さん、謝らないで。私、すごく心細くて、寂しかったから……律さんがドアを開けてくれたとき、嬉しくて、本当に夢かと思ったんだよ。来てくれて、ありがとう、律さん……」
私が涙混じりの掠れたタメ口で、胸の奥底にあった真っ直ぐな感謝(重さ)を伝えると、律さんの焦げ茶色の瞳には、もう自分を縛り付けるための自戒の檻なんて、跡形もなく消え去っていた。
あるのは、一人の苦しむ愛おしい女性のためにすべてを投げ打ち、全力で彼女を看病し、守り抜くという、本物の男の強い覚悟の熱量だけ。
「紡、もう大丈夫だよ。僕がずっと傍にいるからね。さあ、冷えるから早くベッドに戻ろう。何か食べられそうなものはある? 食べられなくても、水分だけは摂らないとダメだよ」
「うん……お腹はあんまり空いてないけど、律さんがいてくれるなら、お水なら飲める、よ……」
「分かった。じゃあまずは横になって。すぐに温かいものを用意するからね」
律さんは私の身体を支えるように優しく手を添え、二度目となる私のワンルームの聖域へと、確かな一歩を踏み出した。
普通の恋愛市場なら「重すぎる束縛」や「過保護すぎるお節介」と切り捨てられるはずの、私たちの歪み。けれど、この冷え切ったワンルームの中では、それがお互いの傷をこれ以上ないほど深く癒やし合う、世界で一番優しい救いの形だった。
「本当に、ここにいてくれるの……?」
ベッドに横たわりながら、私は彼のニットの袖口をそっと弱々しく掴んだ。
「うん、どこにも行かないよ。紡が元気になるまで、ずっとここにいるからね」
律さんは私の手を大きな両手で優しく包み込み、どこまでも真っ直ぐな瞳で微笑んでくれた。その手の圧倒的な温もりに、私の脳裏を支配していた暗い霧は、跡形もなく晴れていく。
「三ヶ月限定の練習」という名目は完全に焼き尽くされ、私たちは不意の暗転がもたらした看病劇の中で、お互いの歪んだトラウマを最高の溺愛で溶かし合う本物の恋の熱量に、さらに深く、濃密に溺れ始めていた。




