第23話「雨音のシェルター、引き止める五秒」
大雨に煙る夜の都内を、律さんのセダンは静かに滑るように走り続けていた。
フロントガラスを激しく叩きつける冷たい水飛沫を、最速で往復するワイパーが規則的な音を立てて弾き飛ばしていく。
暖房の心地よい熱気が満ちた車内は、外の凍てつくような世界から私たちを完全に切り離して守ってくれる、頑丈なシェルターのようだった。
手の中にある缶ココアはまだじんわりと温かく、私の指先を優しく温めてくれている。
けれど、車のナビゲーション画面に表示された目的地までの距離が、一画面ごとに縮まっていくにつれて、車内に流れる沈黙はどこか寂しげな重度を増していった。
私の自宅マンションへと近づいている。それはつまり、アプリから与えられた『お迎えリハビリ』という名の免罪符が、間もなく終了の時間を迎えてしまうという冷徹な現実を意味していた。
私は助手席のシートに身体を預けたまま、フロントガラスの隅に反射する律さんの端正な横顔をじっと見つめていた。
ハンドルを握る彼の綺麗な指先。前方を見つめる焦げ茶色の穏やかな瞳。
(あぁ、終わってほしくないな……。このまま、この車がどこまでも走り続けてくれたらいいのに)
頭の中でそう呟く三十四歳の私は、一年前の元彼に「重い、実家にでも帰るつもりか」と突き放された恐怖を、もう完全に忘れてしまっていた。
律さんもまた、赤信号で車が止まるたび、助手席でココアを大切そうに抱えている私の姿を、愛おしそうに、けれどどこか切なげな目で見つめ返してくれていた。お互いにビジネスとしての契約の終わりを意識し、大人の理性が焦燥感にじりじりと焼かれていくのを感じていた。
◇
やがて、車は私の住む賃貸マンションの前に、静かにスピードを落として停車した。
チカッ、チカッ、と静かな車内にハザードランプの点滅音が規則正しく鳴り響く。窓ガラスを伝う無数の雨粒が、オレンジ色の光に照らされて怪しく明滅していた。
カチャリ、と私がシートベルトを外した音が、まるで終わりの合図のように広く響く。
「……送ってくれて、本当にありがとう、律さん。すごく、嬉しかったよ」
私は寂しさを隠すように努めて明るいタメ口で告げ、ドアノブへとそっと手を伸ばした。
その瞬間だった。
カチ、と小気味よい音がして、車のセンターコンソールにあるドアロックの解除ボタンに、律さんの指先が触れたままピタリと止まった。
彼はボタンを押し込まなかった。つまり、車の集中ドアロックは、施錠されたままびくとも動かない。
いつもなら完璧な紳士として、スマートに私を送り出すはずの律さんが、あろうことか「ドアロックを解除しない」という、彼らしからぬ強引な行動をほんの数秒だけとってしまったのだ。
「律さん……?」
私が小さく首をかしげて彼を振り返ると、律さんはハンドルを握り締めたまま、耳の裏まで真っ赤にして俯いていた。
「……待って。まだ、外は雨が激しいから。……もう少しだけ、シートが温まるまで、ここにいてくれないかな」
掠れた、少し震える彼のタメ口の声。
普通の男女の交際なら、「強引で怖い」とか「束縛されているみたいで嫌だ」と拒絶されてしまうかもしれない、大人のわがまま。
けれど、一途な想いを「重い」と切り捨てられ、相手からの執着を誰よりも渇望していた私にとって、その律さんの『数秒の強引な引き止め』こそが、脳がとろけてしまいそうなほどの、至上の溺愛の証明だった。
「……うん。まだ、ココアも温かいし、ね」
私は伸ばしていた手をそっと膝の上に戻し、嬉しさを噛み締めるように微笑んだ。
◇
ハザードランプのオレンジ色の光が、三秒に一度、私たちの横顔を交互に照らし出す。
窓の外の激しい雨音だけが車内を包み込む、静かな五秒の沈黙。
律さんは自分のとった強引な行動にハッとしたように我に返ると、慌てて私の方を向いて両手を振った。
「ご、ごめんね、紡……! 困らせるつもりじゃなかったんだ。ただ、君が車を降りてしまうと思ったら、胸の奥がすごく苦しくなって、つい……最低だよね、リハビリの壁役のくせに、こんな我儘……」
どこまでも自分を悪者にして自責の沼に沈もうとする、優しさMAXの聖人。
そんな彼の不器用な優しさを見つめているうちに、私の胸の奥にある『一途さ(重さ)』の性質が、もう完全にコントロールを失って決壊した。
私はそっと助手席のシートから身を乗り出し、運転席にいる律さんのジャケットの袖口を、小さな指先でぎゅっと握り締めた。アプリの受け入れ義務なんかじゃない、私の心が、彼を離したくないと叫んだから。
「謝らないで、律さん。……私ね、本当は……この冷たい雨が、ずっと止まなければいいのにって思ってるよ。……だって、雨が止まなかったら、ずっと律さんと、このシェルターの中にいられるから。私、律さんと離れたくないんだよ」
「紡……」
私の真っ直ぐな本音を受け取った瞬間、律さんの焦げ茶色の目が、熱い光を宿して大きく見開かれた。
向けられた彼の瞳の奥には、もう自分を縛るための自戒のブレーキなど、一ミクロンも残っていなかった。
律さんは静かに息を呑むと、宙で迷っていた左手をゆっくりと伸ばし、私の頬を包み込もうとする距離まで、その大きな手のひらを近づけた。彼の高い体温が、雨に濡れた私の頬に、触れる直前の熱となってダイレクトに伝わってくる。
「……紡。次からは、僕の方から『離したくない』って言うよ。君を、誰にも渡したくないんだ」
「うん……待ってる、ね」
窓ガラスを激しく叩きつける大雨の音は、もはや私たちを拒絶する世界のノイズではなく、二人だけの特別な聖域を祝福する心地よいBGMへと変わっていた。
「三ヶ月限定の練習」という建前は完全に焼き尽くされ、私たちはハザードランプの光のなかで、お互いの歪んだトラウマを極上の溺愛で溶かし合う、本物の恋の熱量にどこまでも深く、濃密に溺れ続けていた。




