第22話「雨のステーション、傘の要らない距離」
二〇二六年、冬。
あの狭いワンルームでお互いの自尊心を分け合うように一円単位まで割り勘にし、密室のなかで息が詰まるほどの熱量を共有したあの日曜日から、数日が経過していた。
ハプニングが起きたのは、その週の木曜日の夜だった。
夕方から都内を襲った寒冷前線の影響で、窓の外は視界を白く染め上げるほどの冷たい大雨に見舞われていた。アスファルトを激しく叩きつける容赦のない雨音が、オフィスビルの分厚いガラス窓を鳴らし続けている。
「はぁ……やっと、確認が終わった……」
時計の針が二十一時を大きく回った頃、私はようやくデスクの上の書類を片付け、深い溜息を吐き出した。
クライアントからの急な修正依頼に対応していたせいが、気がつけばいつも長谷川さんへ『今、仕事が終わったよ』と日常の行動報告を送っている時間を一時間以上もオーバーしてしまっている。
私は慌ててバッグを掴み、エレベーターを降りて一階のオフィスエントランスへと向かった。
自動ドアが開いた瞬間、目の前に広がっていたのは、滝のように激しく降り注ぐ大雨の壁だった。
完全に油断していた。今日の天気予報は曇りのはずだったから、私のバッグの中には折りたたみ傘すら入っていない。
駅直結ではないこのオフィスビルから最寄り駅までは、歩いておよそ十分。傘なしで飛び出せば、一秒と経たずに全身が凍えるような雨水でずぶ濡れになってしまうのは明白だった。
ガラス張りのエントランスに立ち尽くし、私はスマートフォンのトーク画面を開いたまま、激しい葛藤の渦に囚われていた。
早く現在地と状況を報告しなければならない。けれど、私の脳内の検閲官が、一年前の冷たい記憶を引きずり出して私の指先を強く縛り付ける。
(ダメよ、紡。『雨でビルから動けない』なんて送ったら、暗に『車で迎えに来て』って催促しているみたいで、絶対に重いって思われるわ。一年前の激しい雨の日、元彼に『傘がなくて駅で立ち往生しちゃった』ってLINEしたら、『タクシーくらい自分で呼んで帰れよ、過保護かよ』って冷たく突き放されたじゃない……)
拒絶される恐怖が、胸を苦しく締め付ける。
けれど、私を動かしたのは、やっぱりアプリの絶対のルール――『我慢せず、相手に行動報告を送信すること』という免罪符だった。私は震える指で、言い訳をするように最低限の事実だけを打ち込んだ。
『律さん、遅くなってごめんね。仕事が終わったんだけど、傘を持っていなくて雨でビルから動けなくなっちゃった。少しここで雨宿りしてから帰るね』
私は祈るような心地で、オフィスビルの位置情報データを添えて送信ボタンを押し込んだ。画面を伏せ、冷え切った両腕を抱きしめるようにして、エントランスの隅で小さく身を縮めた。
◇
同じ時刻。静まり返った設計事務所のデスクで、律はスマートフォンが短く、鋭く震えた瞬間に、弾かれたように画面を凝視した。
画面に映し出された、紡からの切実なタメ口のメッセージ。
『傘を持っていなくて雨でビルから動けなくなっちゃった』
その文字と、彼女の現在地を示す地図のピンを見た瞬間、律の脳内にあるすべての自責のブレーキは、音を立てて粉々に打ち砕かれていた。
一年前、元妻がどこで誰と何をしているか分からず、暗闇のなかで幾晩も嘘に塗れた沈黙を耐え続けていた律にとって、紡のこの『嘘偽りのない、自分を頼ってくれたSOS』は、何よりも愛おしく、そして尊い極上の溺愛の起爆剤となった。
(今すぐ、彼女を冷たい雨から救い出さなければならない。僕の車なら、彼女を一滴も濡らさずに家まで送り届けられる。僕のこの過剰な尽くし体質は、今、彼女を守るためにあるんだ!)
律はシャープペンをデスクに放り出すと、椅子の背もたれに掛けてあった私服のコートを掴み、事務所の駐車場へと文字通り疾走した。
エンジンをかけ、ワイパーを最速で動かしながら、激しい水飛沫を上げて夜の都内を駆け抜ける。頭の中にあるのは、冷え切ったビルの中で一人、不安そうに縮こまっているであろう彼女の姿だけだった。
◇
メッセージを送信してから、およそ三十分。
エントランスのガラス越しに外を見つめていた私の目に、激しい大雨を切り裂くようにして滑り込んできた、一台の端正なセダンのヘッドライトが飛び込んできた。
車はエントランスの車寄せにピタリと停車し、運転席のドアが勢いよく開く。
現れたのは、少し息を切らせ、大きな黒い傘を広げた律さんの姿だった。
「紡! 待たせてごめん!」
律さんは自動ドアを抜けて僕の元へと駆け寄ると、どこまでも優しい焦げ茶色の目を痛々しげに細めて、私の肩を包み込むようにして自身の大きな傘を差し掛けた。
「律さん……どうして……」
「紡の連絡を見て、心配でたまらなくなって、身体が勝手に動いていたんだ。さあ、車へ行こう。一歩も濡らさないからね」
律さんは私の身体が雨に濡れないよう、傘を完全に私の方へと傾け、自分の右肩を激しい雨に晒しながら、スマートに助手席のドアを開けて私を車内へと滑り込ませた。
◇
パタン、と重厚なドアが閉まり、外の世界の激しい雨音が、一瞬にして遠い防音の彼方へとシャットアウトされた。
車内は、私の冷え切った身体を労うように、完璧な温度で温かい暖房が効き届いていた。
「紡、本当に寒かったよね。これ、使って」
律さんは運転席に乗り込むと同時に、後部座席からあらかじめ用意しておいたという、新品のフカフカのバスタオルを私の膝の上にそっと掛けた。さらに、ダッシュボードのホルダーから、まだ自販機で買ったばかりの、熱い缶ココアを取り出して私の手元へと握らせてくれた。
「遅くなってごめんね。本当は、もっと紡の冷えた身体に優しい、温かいハーブティーでも用意しておくべきだったんだ。僕の先回りが足りなくて、本当に申し訳ない……」
律さんは、シートの隣で本気で「自分の尽くしが足りない」と悔しそうに眉を下げて自責していた。
けれど、一年前の雨の日に冷たく放置され、自尊心を粉々に砕かれていた私にとって、その彼の過剰なまでの気遣いと、自分を責めるほどの優しい言葉は、理想の溺愛そのものだった。
「ううん、そんなことないよ……! 律さん、謝らないで。私、傘がなくて本当に心細かったから……律さんが車で颯爽と現れてくれたとき、嬉しくて、本当に涙が出そうだったんだよ。ありがとう、律さん」
私が缶ココアを両手で包み込みながら、心の底からの一途な感謝(重さ)を真っ直ぐに伝えると、律さんはハッとしたように目を見開いた。
向けられた彼の瞳の奥には、もうビジネスとしてのリハビリの盾なんて、一ミクロンも残っていなかった。あるのは、ただ目の前の愛おしい女性を、自分の優しさのすべてで満たしてあげたいという、本物の恋の熱量だけ。
「紡……。そんな風に言ってもらえるなら、僕は、何度だって君を迎えに行くよ」
「ふふ、また私が重い甘えを言っても、嫌がらない?」
「嫌がるわけないよ。君のその重さが、僕の心をどれだけ救ってくれているか、紡にはまだ分からないんだね」
律さんは愛おしそうに静かに微笑むと、ギアをドライブに入れ、ゆっくりと車を発進させた。
フロントガラスを激しく叩きつける大雨のなか、ワイパーが規則正しく往復し、外の世界のノイズを完全に遮断する密室の車内。
お互いに「これはアプリのルールに基づいたお迎えリハビリ(義務)だ」と自分に言い訳をする大人の理性は、お互いを見つめ合う瞳の深さと、狭い空間に満ちていく圧倒的な溺愛の熱量の前に、もはや完全に焼き尽くされていた。
車が私の自宅へと向かって静かに走り出すなか、私たちの歪みはまたしても完璧な相思相愛としてパチリと噛み合い、二人の心は、もう誰にも引き止められない恋の沼の奥底へと、さらに深く、濃密に溺れ始めていた。




