第21話「二時間半の無音、心のディスタンス」
お財布から取り出した小銭同士がカチャリと乾いた音を立てて、半分にきれいに破られたデリのレシートの上に並んだ。
一円単位まで美しく、そして完璧に分け合われた八百五十円ずつの硬貨。
お互いの自尊心をこれ以上ないほど均等に、そして大切に守り合うための、世界一優しいお会計の儀式が静かに着地した瞬間だった。
しかし、その完璧な調和がもたらした安堵のすぐ後ろから、逃げ場のない狭いワンルームならではの、息苦しいほどの沈黙が静かに這い上がってきた。
スマートフォンに表示されたアプリ『Re-Start』の滞在タイマーは、三時間という制限時間のうち、まだ最初の一分が過ぎたことを冷徹に告げているに過ぎない。つまり、私たちの手元には、まだ二時間五十九分という、果てしなく濃密でプライベートな時間が手つかずのまま残されているのだ。
私の住む賃貸マンションのワンルームは、長谷川さんのあの広々とした洗練された一LDKの部屋とはまるで違っていた。
ドアを開ければすぐにキッチンがあり、その奥にはベッドと、小さな木製のローテーブルが物理的にひどく近い距離で鎮座している。
どこを見渡しても、逃げ場のような死角が一切存在しない、あまりにも剥き出しの生活空間。
部屋が静まり返っているせいで、珈琲をゴクリとすする微かな音や、私たちが身動きをするたびに衣類がカサリと擦れ合う衣擦れの音すら、この狭い空間の中では恐ろしいほどの明瞭さで響き渡ってしまう。
(長谷川さんとの距離が、近すぎる……。どうしよう、心臓の音が聞こえてしまいそう……!)
私は珈琲カップを両手で包み込んだまま、膝を小さく抱え込むようにして、自分の胸の早鐘を必死に抑え込もうとしていた。
文字の上でのタメ口にも慣れ、恵比寿の夜に手を繋いで体温を共有した。お互いを異性として狂おしいほどに想い合っているという相思相愛の熱を完全に自覚してしまったからこそ、この「密室で二人きり」という究極のシチュエーションに、私の内側にある大人の理性が、かつてないほどの激しさで危険な警戒アラートを鳴らし響かせていたのだ。
これ以上、この優しい人に近づいてしまったら、リハビリの境界線を完全に踏み越えて、本当に一人の男性として彼を求めてしまう。その心地よい恐怖が、私の喉をふたたびからからに干からびさせていた。
◇
同じ頃、ローテーブルを挟んで私の正面に座っていた律もまた、自分のグラスを持つ指先に奇妙なほどの力が入っているのを感じていた。
今回は「お邪魔する側だから、何もせずに大人しくしている」と何度も自分に言い聞かせてこの部屋のドアをくぐったはずだった。
けれど、目の前にいる紡の、少し緊張で強張った柔らかい肩のラインや、恥ずかしそうに珈琲の湯気の向こうで揺れている知的な黒い目を見つめていると、胸の奥から押し寄せる『彼女のすべてを愛おしみ、尽くしたい』という衝動を抑えることが、もはや拷問のように難しくなっていた。
(動くな、律。ここは彼女の聖域だ。僕のこの偏執的な性質で、彼女を息苦しくさせては絶対に駄目だ)
律は頭の中で猛烈なブレーキを踏み続け、三十五歳の中堅建築士としての理性の壁を必死に保とうとしていた。
けれど、お互いがお互いを傷つけないようにと、極限まで気を使い合って硬直しているその不器用な沈黙は、端から見ればあまりにも初々しく、そして濃密な熱を孕んでいた。
「あの、長谷川さん……ううん、律さん」
私は脳内の激しい自己検閲の網を潜り抜け、勇気を振り絞って彼を名前で呼んだ。
「その珈琲、まだ淹れたてだから、すごく熱いよ。律さん、猫舌だってプロフィールに書いてあったから……気をつけてね」
それは、一年前の元彼に注いだら「うるさいな、子供扱いするなよ」と冷たく拒絶され、私の境界線を狂わせる原因となった、マメすぎる気遣い(重さ)の性質そのものだった。
送るだけで嫌われる恐怖に身をすくめた私だったけれど、目の前にいる優しさMAXの聖人は、その私の言葉を受け取った瞬間、弾かれたように顔を上げると、世界一愛おしそうな焦げ茶色の目を細めて深く微笑んだ。
「ありがとう、紡。君がそうやって僕を気にかけて、教えてくれなかったら、今頃確実に火傷をしていたよ。……紡の気遣いは、いつも本当に優しくて、僕の心を温めてくれるね」
「あ……」
拒絶されない。それどころか、私のこの『重さ』が、彼の前ではこれ以上ないほどの誠実な『おもてなし』として全肯定される。
脳内の検閲官が完全に機能を停止し、胸の奥から甘い涙が込み上げてきそうになるのを、私は珈琲を一口すすることで必死に誤魔化した。
◇
時間が経つにつれて、私たちは買ってきたサンドイッチを口に運びながら、少しずつ他愛のない会話を交わし始めていた。
けれど、物理的な距離の近さが引き起こす『バグ』は、容赦なく私たちの理性を削り取っていく。
「あ、ティッシュ、使う?」
「あ、うん。ありがとう、僕が取るよ」
テーブルの上に置かれたボックスティッシュに、二人の手が同時に伸びた。
その瞬間、私の指先と、律さんの大きな手のひらが、遮るものもなく直接触れ合った。
ビクリ、とお互いの身体が小さく強張る。
これまでの律さんなら、過剰奉仕のセーブから、あるいは相手を不快にさせないための紳士的な配慮から、慌てて反射的に手を引いていただろう。
けれど、今の律さんは、動きを止めたまま動かなかった。
重なる、お互いの手の皮膚。
あの恵比寿の夜の、コートのポケットの中で深く結び合った、圧倒的な五指の熱量。その体温の記憶が、狭いワンルームの空気の中に一瞬で蘇り、私たちの間のディスタンスを完全にゼロにしていく。
律さんは手を引く代わりに、ゆっくりと指先を動かし、私の手を包み込む一歩手前で、そっとティッシュの箱を私の方へと押し進めてくれた。
「……はい、どうぞ。紡」
少しだけ低く、掠れた彼のタメ口の声が、狭い部屋の静寂の中に優しく溶けていく。
「ありがとう、律さん……」
私は真っ赤になった顔を隠すように俯き、ティッシュを受け取った。
テーブルを挟んでいるはずなのに、私たちの肩と腕は、ほんの数センチしか離れていない。お互いの呼吸の速さ、衣服の隙間から伝わってくる肌の火照り、そしてドク、ドク、と高鳴り続ける心臓の鼓動が、狭いワンルームの空気を通じて、ダイレクトに、そしてあまりにも生々しく伝わってきた。
これはリハビリの義務。ただのビジネスライクな契約関係。
頭の中で虚しく鳴り響く理性の壁は、お互いの存在を狂おしいほどに求め合う生身の男女の熱量によって、もはや完全にその形を失い、崩壊の音を立てていた。
◇
楽しい時間は、残酷なほどの速さで過ぎ去っていく。
気がつけば、スマートフォンの画面に表示された滞在タイマーの数字は、残り数分を指して点滅を始めていた。
三時間という免罪符の終わり。ふたたび訪れる、大人の分別の壁。
狭いワンルームの中に、終わりを告げる切ない足音が静かに近づいてくるのを感じていた。
「もうすぐ、三時間だね……」
私は珈琲カップをテーブルに置き、膝の上でロングスカートの裾をぎゅっと握り締めながら、消え入りそうな声で呟いた。
「なんだか、終わってほしくないな。長谷川さんと……ううん、律さんといると、私、自分のままでいていいんだって思えるから。この時間が、ずっと続けばいいのにって、本当に思っちゃうんだよ」
それは、かつて元彼に「重い、結婚を迫られてるみたいで息が詰まる」と全否定された、私の一途すぎる本音の暴走だった。
けれど、その私の寂しげな呟きを耳にした瞬間、律さんの胸の奥では、全ての自責のブレーキが完全に吹き飛んでいた。
律さんはソファから身を乗り出すようにして、私の丸まった小さな肩へ、そっと大きな手を伸ばしかけた。
(抱きしめたい。この愛おしくて不器用な彼女を、僕の腕の中に閉じ込めて、一生離したくない。僕の優しさのすべてを注いで、彼女を誰よりも幸せにしてあげたい)
過剰奉仕の、優しさMAXの衝動が激しく暴走する。
けれど、彼の手のひらは、私の肩のわずか数センチ手前で、三十五歳の大人の分別のブレーキによってピタリと宙で止められた。
「……うん。僕もだよ、紡。本当は、図面を引くのも忘れて、ずっとこの部屋で君の隣にいたい。君の一途な気遣いに、僕の方がどれほど救われているか分からないんだから」
律さんは切なそうに目を細めると、宙に浮いたままの手をゆっくりと下ろし、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「でも……今回はここまで、だね。アプリのルールを破って、紡に無理をさせたくないから。……また、すぐに連絡するよ。毎晩の日常リハビリで、君の声をたくさん聴かせてほしい」
「うん。……待ってるね、律さん」
――ピピピ、ピピピ。
その時、部屋の静寂を切り裂くように、二人のスマートフォンから同時に制限時間の終了を告げる無機質なアラームが鳴り響いた。
三時間という『義務』が満了した瞬間。
私たちはふたたび、お互いのスマホの画面をタップしてアラームを止め、元の「ただのマッチングアプリのユーザー」という大人の境界線を引かれた場所に引き戻された。
私は立ち上がり、律さんを玄関のドアの前まで見送った。
「じゃあね、紡。一週間、またメッセージで」
「うん、律さん。風邪ひかないようにね」
ドアが静かに閉まり、カチャリと鍵がかかる。
一人きりに戻った狭いワンルーム。けれど、長谷川律という一人の男性が残していった、あの自家製スープの温もりや、カーテンを直してくれた手の動き、そして割り勘にしたレシートの残り香は、私の部屋の空気の中に、いつまでも消えない熱となって濃厚に漂い続けていた。
ビジネスとしての練習相手。お互いに期待をしないマイナス百点の関係。
頭の中でそう言い訳をする大人の理性は、お互いを見つめ合ったあの瞳の深さと、繋いだ手の圧倒的な熱量の前に、もはや完全に焼き尽くされていた。
私たちはただ、それぞれの場所で、次なる平日のメッセージラリーという名の免罪符を狂おしいほどに待ち望みながら、もう誰にも止められない本物の恋の炎に、深く、深く身を焦がし続けていた。




