第20話「甘い違和感、二度目の聖域」
二〇二六年、冬。
スマートフォンの液晶画面に表示されるデジタル時計の数字が、静かに進んでいく。
アプリ『Re-Start』に登録し、三ヶ月という限られた期間の中で始まった私たちの『逆療法リハビリ』は、すでに二ヶ月目の第三週を迎えていた。
毎晩、二十時ぴったりに交わされる日常のLINEラリーは、もはやお互いにとって「あって当たり前」の、生活の一部と化している。
言葉遣いがタメ口に変わり、恵比寿の並木道でコートのポケットの中に手を滑り込ませ、初めて『体温の共有』を果たしたあの夜から、私たちの関係性は劇的な変容を遂げていた。
もはや、アプリが提示する「リハビリの義務」という言い訳は、私たち自身の内側では完全に形骸化している。画面の向こうから送られてくる、長谷川さんからのストレートでどこまでも温かい溺愛メッセージを読むたび、私の胸の奥は毎日のように甘い熱で満たされていた。
(本当に、ただの練習相手だなんて、もう自分に嘘はつけない……)
私はベッドの中でスマートフォンを胸に抱きしめ、トク、トク、と不器用なほどに早く脈打つ心臓の音を聴いていた。
けれど、そんな恋の自覚に浸りかけた瞬間、私のスマートフォンが短く、けれど見慣れたパターンでバイブレーションを響かせた。
画面に現れたのは、アプリ運営からの、次なる週末の行動を縛るための強制通知だった。
【第二期リハビリ・パーソナルスペース共有の継続ミッション】
【内容:今週末は【お互いの部屋への訪問・第二段階】として、前回とは逆のユーザーの自宅(=椎名紡ユーザーの自宅)にて、三時間以上の対面リハビリを行ってください。生活環境を相互に開示することで、より深い信頼関係の構築を目指してください】
通知の文字列を上から下へとスクロールしていくうちに、私の脳内の検閲官が、ふたたび激しいパニックと共に大人のブレーキを強く踏み込み始めた。
私の部屋。三十四歳の独身女性が暮らす、都内のなんてことのない普通の賃貸ワンルーム。
(どうしよう……。長谷川さんのあの、塵一つなくて完璧に整えられた洗練されたお部屋に比べたら、私の家なんてあまりにも狭くて、生活感に溢れてて、がっかりされちゃうんじゃないかしら。それに、男の人を部屋に招くなんて、一年前のあの夜以来で、なんだか、どうにかなってしまいそう……!)
私は逃げ出したいほどの緊張感に襲われ、思わず毛布を頭から深く被り直した。
◇
同じ頃、設計事務所の自分のデスクで深夜まで図面を引いていた律もまた、スマートフォンの画面を見つめたまま完全にフリーズしていた。
シャープペンを握る右手のひらには、あの夜、紡の冷え切った指先を包み込んだときの、柔らかくて愛おしい体温の記憶が今も鮮烈に残っている。
最近の律は、オフィスでスマホを気にする回数が明らかに増えていた。
「長谷川、本当にお前、最近いい顔をしてスマホを見てるな。見てるこっちまで当てられそうだよ」
昼間に同僚の男性社員からそうからかわれた瞬間、慌てて言葉を濁したものの、自分の胸の内を支配している圧倒的な幸福感を、律はもう否定することができなくなっていた。
彼女の一途な連絡(重さ)に救われ、彼女をこの手で全力で甘やかしたいと願う日々。
けれど、今回の課題は『紡の部屋への訪問』だ。
(今回は、僕がお邪魔する側だ。彼女の神聖なプライベート空間を汚さないよう、徹底して一歩引いて、大人しくしていなければならない。僕の過剰な『尽くし癖』で、彼女の部屋の空気を乱すような真似は絶対に許されないんだ)
律はネクタイを少し緩め、デスクの上で深く息を吐き出した。お互いに、相手を大切に想うがゆえに臆病になる、三十代半ば特有のじれったい心理戦。二人はそれぞれの孤独の中で、緊張に身を焦がしながら、日曜日という約束の時間を待っていた。
◇
そして迎えた、日曜日の午後。
冬の穏やかな陽光が差し込む、私の小さなワンルーム。
私は約束の一時間前から、部屋の中に掃除機をかけ、クッションの歪みを直し、キッチン周りの水滴を完璧に拭き取っていた。
服装は、お家デートだからと気合が入りすぎていると思われないよう、けれど清潔感のある柔らかなニットとロングスカートを選んだ。
(私の部屋、狭くて驚かれないかな。変な匂いはしないかな。重い女の生活感が出てしまっていないかしら……)
部屋の隅に立ち、自分の呼吸音すら脳内で検閲しながら、私はインターホンが鳴るのを今か今かと待ち構えていた。
ピンポーン、と静かな部屋にチャイムの音が響き渡る。
私は弾かれたように玄関へ向かい、ドアノブを握る手の汗をスカートでそっと拭ってから、ゆっくりと鍵を開けた。
「いらっしゃい、律さん。……どうぞ、入って」
「お邪魔するね、紡。……急に押しかけてしまって、ごめんね」
ドアの向こうに立っていた律さんは、仕立ての良いネイビーのニットを着て、少し緊張したように穏やかに微笑んでいた。
今回は「お邪魔する側だから、何もせずに大人しくしている」と心に誓っていたはずの律さんだったが、一歩部屋に踏み入れた瞬間から、三十五年かけて染み付いた彼の『優しさMAX』の行動原理が、自動的にフル稼働を始めてしまった。
「これ、よかったら二人で食べよう。紡、甘いものが好きって言ってたから」
律さんがスマートに差し出してきたのは、都内で連日長蛇の列ができることで有名な、老舗洋菓子店の綺麗な箱だった。
わざわざ朝から並んで買ってきてくれたのだろうか。それだけではなく、箱を開けてみると、中の焼き菓子はすべて、私が左利きでも破りやすいように、個包装のノッチ(切り込み)の向きが完璧に左側に揃えて並べられていた。
「あ……ありがとう、律さん。わざわざ並んでくれたんだね」
「ううん、君の喜ぶ顔が見たくて、僕が勝手にやったことだから」
律さんはいつもの優しい焦げ茶色の目を細めて微笑むと、部屋を見渡した。そして、窓際のカーテンが、ほんの数センチだけ弛んで隙間ができていることに瞬時に気づいてしまう。
「紡、あそこのカーテン、フックが一つ外れてるね。脚立か、高めの椅子はある? 僕が直すよ」
「えっ? あ、うん、大丈夫だよ、自分で直せるから……」
「ダメだよ。高いところは危ないから、僕にやらせて。建築設計士のスキルは、こういうときのためにあるんだから」
律さんは私の静止を優しく遮ると、部屋にあった丸椅子をスマートに運び、流れるような滑らかな動きでカーテンのフックを綺麗に嵌め直してしまった。
一年前の元彼なら、電球が切れても「お前の部屋なんだから自分でやれよ」とテレビを見たまま放置していたのに。律さんのこの、呼吸をするように差し出される圧倒的なおもてなし。大切にされているという確かな熱が、私の胸の奥をじりじりと火照らせていく。
◇
カーテンを直し終え、二人の距離が少し縮まったところで、テーブルを挟んで座り直した。
お昼時も過ぎていたため、私が事前に近くのデリで買っておいたサンドイッチと、淹れたての珈琲をテーブルに並べる。
「あ、そうだ。これ、事前に買っておいた分の代金なんだけど……」
私がレシートを取り出そうとした瞬間、律さんは慌てたように自分の上着のポケットから革の財布を取り出した。
一円の負担も彼女にかけたくない、という彼の「尽くしMAX」の性分が、ここでまたしても暴走を始めたのだ。
「紡、ここは僕に全額払わせてほしい。君の部屋にお邪魔して、カーテンまで直させてもらったんだ。これくらいさせてくれないと、僕の気が済まないよ」
「ううん、ダメだよ、律さん」
財布を差し出してくる彼の大きな手を見て、私の脳裏に、一年前の冷たい記憶が一瞬だけフラッシュバックした。
「お前の方が給料いいんだから、ここは出しといてよ」と、デートのたびに私を都合の良い財布代わりにし、私の気遣いを搾取し続けた元彼の言葉。
けれど、目の前にいる律さんの瞳には、そんな薄汚い計算や下心は一ミクロンも存在しなかった。あるのは、ただひたすらに私を甘やかしたいという、あまりにも純粋で、底のない思いやりだけ。
だからこそ、私はもう、嫌われる恐怖(自己検閲)を完全に乗り越えて、自分の意志で彼の優しさに真っ直ぐに向き合うことができた。私はテーブルの上に自分の財布をぽんと置き、悪戯っぽく微笑んで彼の目を見つめ返した。
「割り勘にしよう? 律さん。私たちのリハビリのルールは『対等な練習』のはずだから。……それにね、律さんにばっかりそんなに尽くされたら、私、もっと重くなっちゃうよ?」
「紡……」
私の『重さ(一途な遠慮)』を含んだ言葉に、律さんは弾かれたように目を見開いた。
「重いなんて、思ったことないよ。僕は、君にならどれだけ重くなられても、全部受け止めるつもりだから。……でも、君がそこまで言うなら、今回は、君のその優しい提案に甘えさせてもらうね」
「うん、そうして。はい、じゃあ一人あたり、ちょうど八百五十円ね」
お互いにお財布から小銭を出し合い、テーブルの上で一円単位まで綺麗に割り勘にする。
普通の若い男女の、お家デートなら。ムードがないとか、ケチくさいとか、そんな風に切り捨てられてしまうかもしれない、あまりにも現実的な『お会計』の儀式。
けれど、過去の不貞によって自尊心を木っ端微塵に砕かれ、相手に利用され続けた傷を持つ私たち二人の間では、そのきっちりとした割り勘こそが、何よりもお互いを対等な人間として尊重し、相手を絶対に利用しないという**「自尊心を100%守り合うための、世界一優しい極上のおもてなし」**として機能していた。
狭いワンルームの部屋。
半分に破ったレシートと、お互いが出し合った小銭が、小さな木製テーブルの上に綺麗に並んでいる。
それを見つめながら、私たちの胸の奥には、言葉にできないほどの絶対的な信頼感と、甘い火照りが同時に込み上げていた。
(あぁ、この人といると、本当に心が傷つかない。私のままで、生きていていいんだ……)
アプリのタイマーは、無機質に三時間のカウントダウンを刻み続けている。けれど、私たちの間を流れる空気は、もうただの練習相手のそれではない。
世界で一番優しくて、世界で一番不器用な二人の、誰にも邪魔されない濃密な密室リハビリデートが、お互いへの狂おしいほどの恋心を確信しながら、今まさに静かに始まろうとしていた。




