第19話「解けた氷、深夜のトーク画面に灯る熱」
コートのポケットの中で深く、お互いの指の隙間を埋め合うように強く結ばれていた五指。それが、恵比寿駅の改札前という無機質で騒がしい現実の場所にたどり着いた瞬間、ひどく名残惜しそうに、一本ずつその熱を失っていった。
周囲を行き交う大勢の通勤客の足音と、電車の発着を告げるけたたましい電子音。
三十代半ばの社会人という大人の分別が、私たちの間にふたたび冷徹な境界線を引こうとする。
「……駅に、着いちゃったね。本当は、このまま手を離したくないんだけど。次に会える課題の日まで、すごく長く感じてしまいそうだ。明日も、明後日も、本当は君に会いたいと思ってしまう」
律さんは私の指先が離れていく最後の瞬間まで、その焦げ茶色の目を切なげに揺らして、私を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、一年前の元妻の裏切りで凍りついていた面影など、もうどこにも残っていなかった。
「うん、私も……。でも、またすぐアプリの課題で会えるよね、律さん。寂しくなったら、毎日の夜の連絡報告で、たくさんお話ししよう? 私、律さんに聞いてほしいことが、もうたくさんあるよ」
「そうだね。紡からのメッセージ、毎晩一文字も逃さないように楽しみに待ってる。……夜道は暗いから、気をつけて帰ってね、紡」
「律さんも、暖かくしてね。バイバイ、またね」
離れた瞬間の手のひらを、冬の凍てつくような夜風が容赦なくすくい取っていく。あまりの寒さに胸の奥がキュンと疼いた。
自動改札機をくぐり、ホームへ向かう階段を上りながら、私は自分の右手をそっと胸の前に抱きしめていた。まだそこには、律さんの高くて優しい体温が、確かな熱を持って残っていた。
◇
深夜二十三時。
お気に入りの部屋着に着替え、カモミールの温かいハーブティーを淹れてベッドに潜り込んだ私は、スマートフォンを両手で抱きしめるようにして画面を見つめていた。
天井を見上げると、一年前のあの冷え切った破婚の夜の、息もできないほどの孤独が嘘のように遠く感じられる。
脳内の検閲官は、もう私の一途さを「相手の迷惑になる重い束縛だ」と責め立てる警告音を鳴らさなくなっていた。代わりに、長谷川さんの手の大きさを、ポケットの中のあの息苦しいほどの独占欲を思い出すだけで、胸が甘く締め付けられるような痛みが支配している。
「本当に、夢じゃなかったんだよね……」
私は小さく呟き、シーツを顔まで引き上げた。
嫌われる恐怖ではなく、ただ彼を求める純粋な欲求が、私の指先を動かしていた。
同じ頃、自宅の書斎のデスクで、律もまた自分の右手のひらをじっと見つめていた。
かつて「優しすぎて男としての刺激がない、あなたの優しさに私は殺された」と元妻に全否定され、離婚届と共に捨てられた、この呪われたはずの手。
それが、今日の夜、紡の冷え切った指先を包み込み、彼女をあんなにも愛おしそうに微笑ませることができた。
その圧倒的な救いに、律の胸の奥は震えていた。
(僕は、僕のままで、彼女を幸せにできるのかもしれない。いや、僕の方が、彼女の一途さに救われているんだ。もう、自分の心に嘘をついて一歩引くなんて、できそうにない)
もう優しさをセーブする理由なんて、どこにも残っていなかった。
◇
――チカリン。
静寂を破って灯ったトーク画面。そこから、私たちのビジネスとしての契約関係を完全に焼き尽くす、深い夜のラリーが再開された。
『律さん、無事に家に着いたよ。今日のディナー、すごく美味しかった。お店を選んでくれてありがとう。……それから、律さんのポケット、とっても温かかったよ。風邪にひかないように、暖かくして寝てね』
私の送ったメッセージに、律さんはもう「尽くしすぎ」のブレーキを一切かけなかった。送信からわずか数秒、画面に躍り出たのは、直球の溺愛の言葉だった。
『紡、丁寧な連絡をありがとう。無事に着いて本当に安心したよ。僕のポケットが温かかったのは、紡の手を絶対に離したくないって、僕の右手が本気で熱くなってたからだと思う。今も、紡の体温が僕の手の中に残っているよ。……アプリの義務なんかじゃなくて、早くまた、君に会いたいな』
『早くまた、君に会いたい』
画面を見つめたまま、私はシーツをぎゅっと握りしめて、嬉しさのあまり声を漏らした。
「そんなの、もうずるいよ……。義務じゃないなんて言われたら、私、本当に期待しちゃうのに」
お互いに「これはアプリの日常リハビリ報告という義務だ」という建前を、文字の上ではまだ辛うじて保っている。
けれど、やり取りされる言葉のすべては、ビジネスの契約書なんかじゃなく、ただの「深く愛し合う男女の本音」そのものだった。
二ヶ月目の日常がさらに深化していく中、私たちはアプリの免罪符という檻の鍵を、自分たちの手で完全に壊してしまっていた。
もう、ただの練習相手だなんて誰も言い訳できない。
次なる週末の課題を前に、二人の心は完全に一つの「本物の恋」の熱量に包まれ、甘い溺愛の沼の奥底へと、どこまでも引き返せずに沈み込んでいた。




