第31話「さよならの温度、引き裂かれる五指」
カーステレオから流れる切ないバラードの残響が、未だに狭い空間を満たしたまま、律さんのセダンは夜の恵比寿駅前ロータリーへと向かって、速度を緩めながら坂を下っていた。
フロントガラスの向こうに一気に広がったのは、週末の居酒屋街へと向かう人々が織りなす華やかな喧騒、客待ちをするタクシーの長い列、引いてはそれらを無慈悲に照らし出す眩しい街灯の白い光だった。
駅の手前、最後の赤信号に行く手を阻まれるようにして、セダンが静かに停車する。
アイドリングの微かな振動だけがシートを通して伝わる中、律さんはハンドルを握る両手に視線を落としたまま、ぽつりと言葉を零した。
「……この信号を越えたら、もう恵比寿の駅だね。終わらせたくないと思っていても、時間はちゃんと進んでしまうんだな」
「うん……本当に、一日が終わっちゃうね。律さんの車の中、すごく居心地がよかったから、外に出るのが少し怖いよ」
「僕もだよ、紡。本当なら、このままこの車ごとどこか遠くへ行ってしまいたいとすら思ってしまうよ。……なんてね。リハビリのパートナーが、こんな我儘を言ったら運営に怒られてしまうな」
律さんは自嘲するように小さく微笑んだけど、その焦げ茶色の目は全く笑っていなかった。お互いの声を噛み締めるようにして交わされる、車内というシェルターが閉じる直前の、ひどく切なくて不器用な対話。私は彼の寂しげな横顔を助手席から見つめながら、込み上げてくる愛おしさに胸の奥を激しく掻きむしられていた。
◇
信号が青に切り替わり、車はゆっくりと夜の恵比寿駅前ロータリーの縁へと滑り込んでいった。
つい数十分前まで、私たちは時速百キロで流れる高速道路の上で、外の世界のあらゆるノイズを完全に遮断する二人だけの空間の中にいたはずだった。
けれど、目の前にある駅前の騒がしい景色は、私たちの間に築かれていたその聖域を、冷徹な現実の力によって強制的にこじ開け、引き裂いていく。
私は助手席に座ったまま、ダッシュボードのデジタル時計が午後二十一時を指して点滅しているのを、ただじっと見つめていた。その無機質な数字が進むたびに、私の心臓は痛いほどに収縮し、冷たい塊へと変わっていく。
(これで本当に、丸一日がかりの遠出デートの課題が終わっちゃうんだ……)
契約のタイムリミットがすぐ目の前にまで迫っているという絶望のカウントダウン。
脳内の検閲官が、またしも私の胸の奥で頑丈な防衛線を張り直し、冷たい声を響かせる。
(泣いちゃダメよ、紡。楽しかったって、長谷川さんのおかげで前を向けたって、完璧な『卒業生』のふりをするの。最後くらい、あの人に一ミリも迷惑をかけずに、綺麗な思い出のまま終わらせなきゃ……)
胸が千切れるほど寂しいという本音(重さ)を、私は必死に喉の奥底へと押し込み、膝の上でロングスカートの生地を指先が白くなるほど強く握り締めた。
◇
セダンがロータリーの縁にピタリと停車し、律さんはハザードランプのボタンを静かに押し込んだ。
チカッ、チカッ、と静まり返った車内にハザードの点滅音が規則正しく鳴り響く。三秒に一度、車内をオレンジ色に染め上げるその光は、お互いの本音を完璧に隠し通しようとしている、私たちの悲しげな横顔を交互に、残酷なまでの鮮明さで浮かび上がらせていた。
カチャリ、と私がシートベルトの金具を外した音が、まるで処刑の宣告のように静かな空間に広く響き渡る。
その瞬間、律さんの身体がわずかに強張るのが見えた。
律さんは「最後だからこそ、彼女のこれからの人生を邪魔しないよう、完璧なリハビリの壁役に徹しよう」と、心の中で理性のブレーキを限界まで踏み込んでいた。彼は溢れそうになる愛おしさを必死に堪え、運転席のドアを開けて外へと出た。
冷たい夜風が吹き抜ける中、律さんは車の前を回り、私の座る助手席のドアをスマートに開けてくれた。
その瞬間、セダンの足元を優しく照らす温かい「フットライト」の琥珀色の光が、私のヒールの靴とロングスカートの裾をふんわりと浮かび上がらせた。
夜の暗闇でも私が足元を冷やさないように、そして段差に躓かないようにと、最初から計算され尽くしていた律さんのどこまでも深いおもてなし。
(あぁ……ドアを開けるその一瞬の動作にすら、律さんの優しさが詰まってるんだね……)
フットライトの温かさに胸がじわりと熱くなったのも束の間、ドアの外から容赦なく吹き込んできた「現実の冷たい夜風」が、車内の甘い余熱を容赦なく剥ぎ取っていく。
「……はい、どうぞ。紡。足元、気をつけて降りてね」
差し出された彼の大きな手のひら。
一年前の冬に元彼に「後ろを勝手について来いよ、外でベタベタするな」と冷たく放置されていた私にとって、その律さんのどこまでも紳士的で、お互いを『練習相手』として綺麗に送り出そうとする完璧なエスコートは、かえって胸を鋭く抉るような切なさを持っていた。
私は大人の社会人としての仮面を必死に張り付け、不自然に引き攣った笑顔を作りながら、彼の大きな手に向かって、そっと自分の冷え切った指先を伸ばした。
車外へ出た私の指先を、律さんの大きな手のひらがそっと包み込む。
改札口へと向かう人波から少し外れた、ロータリーの隅にある植え込みの影。冬の凍てつくような夜風が私たちの間を吹き抜けるけれど、あの恵比寿の夜のように、彼のコートの温かいポケットの中に私の手を誘うことは、もうお互いの理性が許さなかった。
今日で、すべての免罪符が終わる。
お互いに「最高の卒業生」として、相手のこれからの未来に余計な未練という名の足枷を残さないよう、喉の奥まで出かかっている本音を猛烈に自己検閲していた。「行かないで」とも、「離したくない」とも言えない大人の空回り。私たちはただ、壊れ物を扱うように互いの指先の熱を感じながら、静かに、綺麗な言葉だけを選び合おうとしていた。
「二ヶ月間、本当にありがとう、紡」
律さんは私の冷え切った指先を壊さないように優しく包み直しながら、どこまでも真っ直ぐな焦げ茶色の目を少しだけ潤ませて微笑んだ。
「君が僕の日常報告を毎日欠かさず受け止めて、あの神楽坂や紡の部屋で、僕の歪んだ尽くし癖を全部優しい笑顔で肯定してくれたから……。僕は、自分のこの過剰な性質が、誰かの確かな救いになるんだって知ることができた。君のおかげで、僕は僕のままで生きていていいんだって、本当に救われたんだよ」
彼の言葉が一文字ずつ胸の最深部に染み渡り、私の視界が急激に滲んでいく。
「私の方こそ……私の方こそ、本当にありがとう、律さん」
私は溢れそうになる涙を必死に堪え、彼の手を小さく握り返した。
「私のあの、毎日どこにいるか教えちゃうような重い気遣いを、律さんは一回も嫌がらずに、それ以上の温かさで待っていてくれた。……私ね、律さんのおかげで、もう一度人を信じて、前を向いて歩けるよ。私の歪みを受け止めてくれて、本当に、本当にありがとう」
◇
お互いをこれ以上ないほど大切に想い、最高の感謝を伝え合う。なのに、その言葉のすべてが、二人の関係を綺麗に終わらせるための「お別れの挨拶」として響いていた。
胸を締め付けるような静かな沈黙のなか、ついに駅の時計の針が別れの時間を告げる。
「……じゃあ、行かなきゃ、ね。律さん」
「うん。……気をつけて帰るんだよ、紡」
繋がれていた私たちの五指が、ゆっくりと、引き裂かれるように離れ始める。
親指が離れ、人差し指が離れ、中指が離れていく。その、一本ずつ指先の皮膚が離れていく切ないディテール。
そして、最後の小指が完全に離れてしまったその瞬間。
冬の凍てつくような夜風が、私たちの手のひらの間にあった圧倒的な体温を、容赦なく、一瞬にして奪い去っていった。
「っ……」
その、あまりの寒さと寂しさに耐えかねて、私の目から、それまで必死に隠し通そうとしていた一筋の涙が、ポロリとこぼれ落ちて頬を伝った。
「紡……っ」
それを見た瞬間、律さんはハッとしたように目を見開いた。
彼は慌てて、その私の涙を拭うために、もう一度大きな右手を私の頬へと伸ばしかけた。その指先には、出会った最初の瞬間のラウンジの時と同じ、限界突破した優しさMAXの衝動が宿っていた。
けれど、彼のその手は、私の肌に触れるわずか数センチ手前で、三十五歳の大人の分別のブレーキによってピタリと、宙で止められた。
(ダメだ、律。ここで彼女を抱きしめて引き止めてしまったら、それは彼女をアプリの『義務感』や『罪悪感』で縛り付けることになる。それは、彼女をまたお人形にしてしまう、僕の独占欲のエゴだ。僕は、彼女を笑顔で解放してあげるべきなんだ……)
苦しそうに歪む、律さんの美しい横顔。
私はその彼の宙に浮いた手のひらを見つめながら、ボロボロと溢れそうになる涙を必死に袖で拭うと、最後の力を振り絞って笑ってみせた。
「バイバイ、律さん! ……本当に、大好きだったよ!」
これ以上ここにいたら、彼の優しさに甘えて、すべてを台無しにしてしまう。
私は背を向け、眩しい恵比寿駅の改札口へと向かって、振り返ることなく全力で走り出した。
◇
残されたロータリーの隅。
長谷川律は、宙に浮いたまま冷え切っていく自分の右手のひらを、ただじっと見つめていた。
人混みのなかに消えていく、紡の小さな後ろ姿。
耳の奥には、彼女が最後に遺していった『本当に、大好きだったよ』という、アプリの義務を完全に踏み越えた、生身の掠れた恋の告白が、いつまでも木霊して離れなかった。
抱きしめたかった。
あの時、分別のブレーキなんて踏みちぎって、彼女を腕の中に閉じ込めて、一生離さないと告げるべきだったのではないか。
けれど、彼の手の中に残されたのは、彼女の体温が消え去った後の、冬の夜風の圧倒的な冷たさだけだった。
スマートフォンがポケットの中で短く震える。
画面には、アプリ『Re-Start』からの、三ヶ月間のすべてのリハビリプランが正常に完了したことを告げる、無機質な完了通知が灯っていた。それと同時に、二人が毎晩言葉を交わし続けた専用のチャットルームが、目の前で静かに、完全に強制閉鎖されていく。
正当に連絡を取り合える理由を、私たちは完全に失った。
お互いを狂おしいほどに愛しているという本心を自覚しながらも、お互いを想うがゆえの『大人の配慮』という内なる敵によって、完全に引き裂かれてしまった二人。
律は冷え切った拳をコートのポケットへと押し込み、紡のいない静まり返った車内へと戻るため、重い足取りで歩き出した。ビジネスの檻が完全に閉じる音を聴きながら、二人の止まっていた時間は、ふたたび孤独な空白の期間へと、切なく沈み込んでいこうとしていた。




