第57話 ひとりの夏
「ああ、お前、来週からは来なくていいぞ」
————パリン。
その言葉を聞いた瞬間、世界から色がなくなって、体の感覚全てが抜け落ちたかのように錯覚した。
今から麦茶を注ごうと思っていたガラスのコップが、いつの間にか手元からなくなっている。
「っおい、どうした!?」
「————」
「……こいつ……放心しながら時を戻してやがる……」
何か怒らせるようなことをしてしまった? 実は負担をかけていた?
研究は続けさせてもらえる? それともこれで終わり?
色んなことが頭の中を巡っては消えていく。
「……逢坂さん……わたし、なにか……不手際が……?」
「? ああ……すまん、言い方が悪かったな。言葉が足りなかった」
手元に戻っていたコップが、逢坂さんの手によって持ち去られ、そこに麦茶が注がれるのを目で追う。
それから頭をぽんと撫でられて——止まっていた肺が、再び動き始めるのを自覚した。
「正確には、『来週から一週間』、だ。だから来週の予定だの何だのは考えなくていい、そういう話だ」
「……ま、まぎらわしい……」
「悪かったと言ってるだろ」
苦笑と共に差し出された麦茶を受け取って、口をつける。
冷たく香ばしい風味が鼻を抜けて、溜息と同時に身体の力が抜けていった。
壁にかけられたカレンダーに目をやると、来週の火曜日から再来週の火曜日まで、いつの間にかマーカーが引かれている。
「……何かあるんですか?」
「ここを空ける。まあ……平たく言えば、同窓会みたいなもんだ」
同窓会。
そういえば、逢坂さんは魔術師の学校に通っていたはずで……
「もしかして、『学院』の?」
「そうだ」
「おお……」
魔術師の学校の同窓会。楽しそうすぎる。
でも、こういうのってお盆の帰省に合わせて開かれるものじゃないのだろうか。
帰省シーズンには一週間早い気もする。どうなんだろう。
「お盆じゃないんですね」
「学院はイギリスだ。ホリデーシーズンではあるが、盆は関係ない」
「イギリス……!」
何となく思い描いていた逢坂さんの学生生活が、完全にファンタジー小説のそれになった瞬間だった。
「そ、それ、わたしもついていけたりとか」
「お前、パスポートはあるのか?」
「……ないです」
「なら無理だ」
二年生になるまでに取ればいいか、なんて思っていたのが仇になった。これから取ろうと思っても間に合わない。
いざとなれば密航してでも——
「大体なぁ、魔術師の巣窟にお前を連れて行けるわけないだろうが。自分の立場分かってんのか? ん?」
「……おっしゃる通りです……」
……そんなわたしの目論見は、逢坂さんの二言目によって打ち砕かれた。
さすがにそう言われたら諦めざるを得ない。
「ったく……お前が想像するほど楽しいもんでもないぞ。同門で集まってパブで飲む程度だからな」
「同門……研究室の?」
「ああ」
自分のコップに麦茶を注ぎながら、何でもないように逢坂さんは言うけれど。
その瞳は、どこか遠くを見ているような色をしていた。
確か、逢坂さんがいた研究室の教授は、学院の夏季休暇中に——
「教授の命日にかこつけて集まる。それだけだ」
——その一言が部屋に広がるより前に、蝉の声が大きくなった気がした。
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大学の夏休みというのは長い。
前半バイト漬けにして後半は海外に行くとかなんとか、友達との話から漏れ聞こえてくる。
これが大学生のスタンダードなのか、それとも国際系学部に特有のものなのかはわからない。
わたしは普段からバイト漬けみたいな感じで扱われているので——ダン活部の勧誘に熱心な友達がいるから、大学ではそういうことにしている——夏休みも当然そうだと思われている。
実際にはダンジョン漬けの予定だったんだけれども。
そんなわけで、来週から夏休みですけどどうしますか~、と軽い気持ちで聞いてみたところ……いきなり夏休み序盤が暇になってしまった。
「どうしようかな……」
自宅のベッドで転がりながら独り言ちる。
逢坂さんからは「俺がいなくても勉強を怠るなよ」とのお言葉をいただいている。
なお、この勉強というのは研究のための座学ではなく、大学の勉強である。語学まわりも逢坂さんに教わっているのだ。
もちろん、わたし一人でも多少はやるつもりだ。多少は。
でもそればっかりで一週間を過ごすのは御免こうむりたい。
当初の思惑通り、ダンジョンに入り浸ろうか。
でも、正直……一人で潜っててもそこまで楽しくはないんだよなあ。
せめて全然違う景色の、目新しいダンジョンに行ってみようか。
そうでなければ友達を誘って遊びに行くか。
そう思いつつ探索者協会のサイトを開いてみると、「new!」と強調されたインフォメーションが目に入った。
「ダンジョン探索体験ツアー……有償ボランティア募集……?」
見出しをタップしてみる。
なんでも、ダンジョン適合検査で陽性だった高校生を対象に、実際にダンジョンを体験してみるというイベントが企画されているらしい。
「参加資格は……クラスC以上。……行けるかも?」
ツアーは八月の毎週土曜日に開催される。ボランティア参加者の説明会は前日。
急な気もするけど、まあ初めてのイベントみたいだしこんなものかもしれない。
逢坂さんは八月三日に羽田からロンドンに飛んで、一週間後の十日に帰ってくる。この期間中にツアーがあるのは八月七日。
これはもしかして、息抜きにぴったりの日程なのでは?
思い立ったが吉日。
関東だけでも会場となるダンジョンがいくつかあって、ヨコハマダンジョンもその一つだけれど……何度も行った場所を選ぶのはもったいない。
東京会場——アキハバラダンジョンでのボランティアに申し込んでみよう。
……協会のサイトにログインしてるはずなのに、個人情報を入力し直さないといけないのが解せないけども。
「こういうところなんだよなあ……」
ぶつくさ言いながらも申し込みボタンをタップする。
それからしばらくアキハバラダンジョンについて調べていると、申し込み受理と説明会の案内メールが届いた。
……今真夜中なんだけど、資格確認まで含めて自動返信だよね? さすがに……
まあ、とにかくこれで予定が一つ埋まった。
スマホを脇に置き、天井を仰ぐ。
さっきまでの浮ついた気分は、すっかり落ち着いてしまった。
わたしがこうして暇を持て余している間、逢坂さんはイギリスへ行く。
世の中の人たちは、何回忌とか言って親族で集まり、故人を偲ぶ法事をやるらしい。それに近いようなものだと思う。
どんな話をするのだろう。
教授との、研究室の思い出とか。ダンジョンでこんなことがあったよな、とか。
……逢坂さんは、どんな学生生活を送っていたのかな。
そして……おいていかれるというのは、どんな気持ちなんだろう。
わたしにはまだわからない。確かなのは、これから嫌でも知ることになるということだけ。
逢坂さんだって、いつかわたしをおいていく。
「……それは、いや、だなぁ……」
逢坂さんだって当然、嫌だったんだろうな。
だから、遺された分まで背負うことを決めたのだろう。
亡くなった先生——教授って、どんな人だったんだろう。
逢坂さんにそこまでさせるほどの人。
……もしかしたら、女の人だったりして。
「——いやいやいや」
亡くなった方に対しても逢坂さんに対しても失礼すぎる。不謹慎にもほどがあった。
足元のタオルケットを引っ掴み、頭まで引き上げる。
逢坂さんがいない一週間のことを考えるから、こんな変な考えが次々浮かんできてしまうんだ。
退屈は人を殺すとはよく言ったものである。
死ぬとまではいかなくとも、いいことなんて何もない。
こうなったら、予定を詰めに詰めてしまおうか。
……それはそれで疲れるか。
とりあえずは、さっきのツアーだ。
一端の探索者として、未来の後輩を導くとしよう。
それから……まあ、テキストもちょっとは開かないとな。サボってたら怒られてしまう。
暗い考えを頭の隅に追いやりながら、ベッドボードのリモコンで照明を常夜灯に切り替えて、目を閉じた。




