第46話 お荷物なりの打開策
しばらく誰も動けなかった。
濁った赤い瞳が、部屋の中をゆっくりと見渡している。
二本の脚で立つ黒鉄色の狼。金属臭と腐臭の両方を漂わせている。
もはやあれをアルファと呼んでいいのかもわからない。
たぶん、答えはドロップアイテムの鑑定結果が教えてくれるだろう。
推定、三十一層以降のモンスター。
それがどれほどの強さなのか、正確に知る者はこの場にいない。
けれど……少なくともここが二十一層で、わたしたちが未だ二十一層を踏破していない探索者だということだけは、確かな事実だった。
「ど……どうすんだよ、おい……」
早瀬さんの声が掠れている。
火野さんは杖を構えたまま固まっていて、与田さんの顔からは血の気が引いていた。
今にも飛び掛からんとするように、アルファの膝が沈む。
「——与田ァ!!」
岩本さんの怒鳴り声が、凍った空気を叩き割った。
「っ、バイタリティ・ブースト!」
弾かれたように与田さんが杖を振る。
淡い光が岩本さんの全身を包んだ、その瞬間。
「喰らいやがれッ!!」
岩本さんが床を蹴る。
振りかぶった両手斧が、アルファめがけて叩きつけられる——そのはずだった。
「なっ……」
ゴォンと鈍い音を立てて、斧はアルファの両手に受け止められていた。
正確には、柄の部分を掴まれている。
装甲に刃は届いていない。それどころか、アルファはそのまま斧を押し返してくる。
岩本さんの足が、ずるずると後ろに滑っていく。
「ストレングス・ブースト!」
与田さんの二の矢だ。
光が重なった途端、岩本さんの押し込まれていた両腕がぴたりと止まる。
「ッだ、らぁ……!」
金属同士が軋む音を響かせながら、岩本さんとアルファが押し合っている。
……いけるかもしれない。
装甲こそ硬そうだけれど、太刀打ちできない膂力というわけではなさそうだ。
バフを重ねた岩本さんが正面からやり合えている。
「毅! 援護する!」
岩本さんの斜め後ろに回り込んだ火野さんが、杖を振りかぶった。
「フレイムウィップ!」
炎の鞭がしなり、アルファの胴へと巻きつく……その直前。
装甲の表面を、光が波打った。
水面に石を投げたときのような波紋が広がって、炎は掻き消えるように弾かれた。
焦げ跡ひとつ残ってやしない。
「は……? なんで!? ちょっと、今の何!?」
「スペルが……効いていない……?」
与田さんの呟きに背筋が冷えた。
スペルを受け付けていない。まるで、ダンジョンの壁のように。
「柊さん! 他の属性を!」
与田さんの声が飛んでくる。
——来た。来てしまった。
わたしの攻撃は魔法であってスペルではない。
あの装甲がスペルを弾く仕組みだとして、わたしの攻撃にどう反応するかはわからない。
もし火野さんのときと明らかに違う弾かれ方をしたら。あるいは、通ってしまったら。
……でも、ここで何も唱えない方が不自然だ。
「やってみます! ……ウィンドカッター!」
偽物の待機時間を挟んで、不可視の斬撃を放つ。
与田さんたちの目もあるから、それ相当に抑えた出力で。
ガッと硬い音がして、斬撃は装甲の表面で止まった。
傷ひとつついていない。……光の波紋は出なかった。
「風もダメ……!」
「くそっ、属性の問題じゃねえのかよ!」
早瀬さんが吐き捨てる。
誰も火野さんのスペルとの違いには気づいていない。
それは、この場合いいことではあるのだけれど。
(……これじゃ、わたしも火野さんもお荷物だ)
全員の前で「アルファの装甲にスペルは効かない」が確定してしまった。
この後わたしが装甲を打ち破ったら、それこそ記憶改変コースだ。
物理現象を通さないゴーストといい、スペルを通さないこの装甲といい……
みなとみらいダンジョンはわたしに厳しすぎないだろうか。ちょっと抗議したい。
「——正面は任せた。横から崩すぞ」
低い声とともに、白い影が過ぎ去った。
岩本さんと押し合うアルファの右側面へ、逢坂さんの短剣が閃く。
「ストレングス・ブースト!」
反対側からは、先に与田さんの支援を受けた早瀬さんの山刀。
装甲の継ぎ目、関節、腐肉の覗く隙間——急所らしい急所を、二人の斥候が的確になぞっていく。
なのに……刃が滑る音ばかりが響いて、アルファの体勢はまるで揺らがない。
「キッモ! こいつ当たる直前に装甲を動かしやがる!」
「……チッ」
逢坂さんが苛立ったように舌打ちする。
あの黒鉄色の装甲は、手数で刻む斥候とも、絶望的に相性が悪い。
「スペルを弾いているのはあの装甲だ……! 装甲さえ壊せれば——」
与田さんの声がそこで途切れた。
装甲さえ壊せれば、スペルも剣も通るだろう。
でも、今この場でそれができるのは……アルファを押し止めている岩本さんだけ。
あの装甲を破壊するほどの一撃を加えるとなれば、きっと自身は無防備になる。
与田さんの口が、開いては閉じるのを繰り返して……
「——上等だッ!!」
岩本さんの方が先だった。
マザー戦のときと同じく、岩本さんの威勢のいい叫び声が響く。
押し合いから一度飛び退いて、両手斧を大上段に振りかぶる。
渾身の大振り——でも、それはやはり、大きな隙でもあった。
振り下ろしより速く、鉤爪が岩本さんの胴を薙ぐ。
「がっ——」
鎧ごと弾き飛ばされた大きな体が、床を跳ねて壁際まで転がった。
両手斧が手を離れ、けたたましい音を立ててわたしの近くの床を滑っていく。
「毅……!?」
「岩本!!」
倒れた体は動かない。
……ううん、かすかに呻いている。
生きている。でも、そう簡単に戦線には復帰できないだろう。
急いで駆け寄って、カバンからポーションを取り出す。
「毅! ねえ、しっかりしてよ……!」
同じくそばに駆け寄って岩本さんの身体を揺すろうとする火野さんを制して、ポーションの蓋を開ける。
全身を打っているのだから、ポーションは体にかけるより飲ませた方がいいけれど……少しずつしか無理そうだ。
「て、てめえ……!」
早瀬さんが頭に血を上らせて踏み込んだ。
……それがいけなかった。
「待て、早瀬——!」
返す爪の一撃が、山刀ごと早瀬さんを打ち払う。
「ぐあっ!?」
吹き飛ばされた体が、少し離れたところに落ちた。
「早瀬! ……くっ、ポーションを……!」
与田さんが早瀬さんに駆け寄る。
ポーションを取り出す手が震えているのがちらりと見えた。
「……俺のせいだ……俺が迷ったから……」
誰に聞かせるでもないのだろう、噛み殺すような声が耳に残った。
——もう、前衛は逢坂さんしか残っていない。
「……随分と躾のなってない駄犬じゃないか」
……余裕のある台詞だけれど、たぶんアルファに向けている顔は少し引きつっていると思う。
逢坂さんとはそこそこの付き合いだ。なんとなく声でわかる。
「逢坂さん、お願いします……! アジリティ・ブースト!」
早瀬さんを治療しながらも、与田さんの支援は的確だった。
今一番必要なのは筋力でも活力でもなく、回避し続けられる敏捷性の方だろう。
短剣を構え直した逢坂さんが、一人でアルファの注意を引きつけている。
たぶんだけれど、目を狙おうとしているように見える。でも向こうもそこが弱点なのはわかっているようで、反撃は苛烈だ。
それを躱しながら再び目を狙うものだから、アルファも苛立っているかのように唸る。
ヘイト管理はじゅうぶんだった。
でも、有効打はない。このままでは逢坂さんの体力が尽きてしまう。
「バイタリティ・ブースト!」
与田さんも同じことを考えたのか、続いて支援スペルを唱える。
それでも、あの装甲を壊せない限りジリ貧だ。
「火野さん」
「なに……?」
「岩本さんをお願いします」
ポーションによる治療役を火野さんに交代して立ち上がる。
……考えろ。わたしにできることを。
魔法を使うかどうか。
逢坂さんは言ってくれた。もしもの時は自由に使っていいと。
この人たちになら、記憶操作をしても問題ないと。
雷の魔法、あるいは見えざる手の魔法を思いっきり叩きつけてもいい。
時戻しの魔法で岩本さんたちの怪我をなかったことにして、戦線に復帰してもらってもいい。
(…………でも)
逢坂さんとスペクターのときのことが、頭をよぎる。
あのときの暗示だって、後から思いもよらないところに綻びが見つかった。
このゾンビーアルファの強化体と思しき個体が、もし既知のものだったら?
岩本さんたちにわたしの知らない事情があったら?
それが、わたしの思惑と矛盾してしまったら?
いっそこんなイレギュラーボスなんていなかったことにする?
……大掛かりな改変になればなるほど、不安は大きくなるだけだ。
それに——逢坂さんに、あれだけ言われているのだ。
ダンジョンで魔法を使えることは、絶対に誰にも知られないようにと。
ダンジョンの中でおかしなことが起こって、そこにわたしがいた。
そんなこと、万が一にも広まってはならない。
もしそうなったら……逢坂さんに、きっと大きな迷惑がかかるから。
だから、魔法で片付けるのは最後の手段として……何かないか。
ダンジョン探索者として説明のつく範囲で、わたしにできる打開策——
視線を彷徨わせて、やがてある一点で止まった。
鈍い光を放つ、分厚い刃。
端から端まで、わたしの身長ほどもあるんじゃないかという巨大さ。
——弾き飛ばされた、岩本さんの両手斧がそこにあった。




