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第36話 意味は知れず

「あ゙ぁ~……」


 わたしは今、逢坂さんのお家のベランダで夜風に当たっている。

 ……ついでに(うめ)き声も上げている。


 あれから逢坂さんの詰め込み教育が始まって、夜まで魔術式とにらめっこすることになってしまった。

 逢坂さんの扱う術式回路はあくまで術式の一種類であり、実際にダンジョンのスペルやスキルがどんな仕組みで動いているかはわからない——そんな理屈から、ありとあらゆる術式のフォーマットを覚えておかなくてはならない、とのこと。


 パンク寸前のわたしを見かねたのか、それとも(むち)のあとの(あめ)なのか、逢坂さんはお寿司の出前をとってくれた。

 それを三階の逢坂さんのお家でご馳走(ちそう)になって、そして今に至るというわけである。


 ちなみに逢坂さんのお家は二階と違いよく片付いていた。というか、物が少なくて生活感がなかった。


「…………」


 わたしのマンションのある大通り前や、大学の周りほど開放的ではない、込み入った路地の小さなビルのベランダ。

 逢坂さんによれば、外からは無人に見えるようになっているらしい。


 このビルよりも背の高い建物がちらほらあって、空はあまりよく見えない。

 それでも、これはこれで風情(ふぜい)のある景色ではあるな、と思った。


『ガラッ』


 そんな感じでしばらく外の景色を眺めていると、背後でガラス戸の(すべ)る音がした。


「どうしました?」


 振り返った先にいたのは、当然ながら逢坂さんである。

 ベランダに並べてあったサンダルに履き替えながら、こちらを見下ろしている。

 ……頭が窓枠のてっぺんすれすれを通っていったのは、さすがに目の錯覚(さっかく)だと思いたい。


「ちょいとこいつをな。ほら、お前はもう中に戻ってろ」


 そう言って、逢坂さんは胸ポケットから何かを取り出す。

 薄暗い中で目を()らすと、それは煙草(たばこ)の箱だった。


「ああ。気にしませんよ、わたし」

「俺が気にするんだが」

「副流煙なんかじゃどうにもなりませんから」

「……そうかい」


 少しだけ端に寄ると、逢坂さんはわたしの隣に立って、ライターで煙草に火をつけた。


 ライターの小さな炎が、一瞬だけ逢坂さんの横顔を下から照らす。

 眼鏡のレンズに光が映る。その奥の瞳が一瞬だけ揺らめいて——次の瞬間には火が消えてしまった。

 代わりに、逢坂さんが(くわ)えている煙草の先端が赤く灯る。


 ゆっくりと吸い込んで、顔を上げて吐き出す。

 路地のまばらな明かりに照らされた煙は、すぐに溶けて消えていった。


 ……煙草の煙を紫煙(しえん)と呼ぶけれど、本当にちょっと紫なんだな。

 そんなことを思いながら、煙の行先をぼんやりと眺めた。


 指の間に挟まれた煙草は、大きな手に対してやけに小さく見えた。


「……何見てる」

「あ、すみません。ちょっと珍しくて」

「結局気になりはするってか」


 呆れたように笑って、逢坂さんは二口目を吸った。


 わたしの周りに吸う人はいなかったので、何がいいのかはよくわからないけれど……逢坂さんの肩から力が抜けているように見えるのは、煙草のせいなのかもしれない。


 ベランダの(すみ)には小さなテーブルがあって、そこに灰皿が置いてあった。

 そこで軽く灰を落としてから、逢坂さんはわたしに視線を向ける。


「どうだ、柊。魔術について知れた感想は」

「……もっと違う形で知りたかったです」

「繰り返すが、お前が言い出したことだからな。責任は取れよ」

「はぁい……」


 にべもない言葉に溜息をついて、ベランダの手すりにもたれかかる。

 ふぅーっと息を吐く音と煙草の匂いを隣に感じながら、目を閉じて夜風に頭を冷やす。


 ……いや、ダメだ。目を閉じたら(まぶた)の裏で今日見た術式がいくつも踊り出した。

 これは当分消えてはくれないだろう。


 記憶を消す魔法があるんだから、記憶を焼き込む魔法も使えないものだろうか。

 暗示はちょっと違うしなあ。


 …………ああ、そうだ。


「逢坂さん、ちょっと聞いていいですか」

「何だ」

「昨日、一度見たものは忘れないように対策してるって言ってましたよね。それって魔術ですよね?」


 もう続きの言葉を察したのだろう、逢坂さんが(しら)けた目を向けてくる。

 それでもめげるわけにはいかない。


「……そうだが?」

「それ、わたしに使ってもらったりとかは——」

「お前に必要なのは術式の暗記じゃなくて理解だろうが。そんなもんで楽ができると思うなよ」

「……はい」


 一蹴(いっしゅう)されてしまった。悲しい。


「……もしもだ。もしお前に記憶保護魔術を(ほどこ)すとしても……恐らく効果は出ないだろう」

「それは……どうして?」

「ふむ……まずはこの魔術の仕掛けから解説するか」


 そう言うと、逢坂さんは指に挟んでいた煙草をぐりぐりと灰皿に押し付けて、わたしの方に向き直った。

 わたしもしっかりと聞く態勢をとる。


「人の記憶はどこに蓄積(ちくせき)されると思う?」

「どこって、脳じゃないですか? あ、心臓とかって話も聞きますけど」

「後半のは今は置いておけ。まあ、臓器と考えるならそれでもいいが……その通り、人の記憶は脳に保持される」


 だから、わたしの時戻しの魔法で、逢坂さんは一度記憶を失った。脳の状態も巻き戻ったから。

 でも、ダンジョンから出たあと……たぶん、魔術が使えるようになったあと、記憶を取り戻した。そういうことだと思う。


「だが、もうひとつ。人の魂にも記憶は蓄積される。脳に保存されるよりも、ずっと明確なやつがな」

「……魂?」

「ああ。そうでもないと幽霊(ゴースト)に生前の記憶がある説明がつかないだろう」


 ……今、しれっと幽霊が実在する(てい)で話が進んだ気がする。

 まあ、魔法や魔術があるんだから、幽霊だっているんだろう。たぶん。見たことないけど。


「脳の機能はあてにならないことも多い。記憶が取り出せなくなったり、障害が起こったときなんかに、人は正確な記憶を失う。失われたか、あるいは最初から覚えちゃいないような内容を勝手に補完することもある」


 よく聞く話だ。

 わたしが記憶を植え付けるときも、そこまで詳細には内容を指定しない。相手が勝手に辻褄(つじつま)を合わせてくれるからだ。


「一方、魂は見聞きし考えたままを保存する。本来この記憶が(あら)わになるのは、魂が肉体から離れたときだけなんだが——」


 そこで一旦区切って、逢坂さんはこつこつと自分の(ひたい)を指で叩いた。


「そこで、魂と脳の記憶を同期させることはできないかと俺は考えた」

「……わたしの時戻しの魔法は魂にまでは作用しないから、それで思い出しちゃったってことですね」

「ああ。ついでに魔法使いの魂は人間と形が違い過ぎて、俺の術式は適用できないというわけだ」


 カラクリを聞かされれば、すとんと()に落ちた。


 魔法使いにとって、魂とはあまりに重要で不可侵な領域だと両親から聞いている。

 もしかすると、そのあたりは魔術の方が進んでいるのかもしれない。


「でも、記憶喪失になっちゃってその魔術のこと自体を忘れちゃったら大変じゃないですか?」

「それも想定済みだ。だから直接術式を(きざ)んで、体内を巡る地脈魔力をスイッチとして術式が起動するようにしてある」

「……直接? 刻む?」

()()に、だ」


 そう言って、逢坂さんはもう一度額を叩いた。


「————いやいやいや、嘘ですよね? 下手したらあの板みたいになっちゃうんですよね? それでダンジョンに潜ってるんですよね?」


 思わず一歩後ずさる。

 なのに、逢坂さんはなんでもないような顔をしていた。……こわい。


「探索者になるときに、地脈魔力が途切れた時点で術式回路も断絶するよう細工した。問題ない。……まあ、まともな魔術師はやらんだろうさ」

「……でも、やったんですね」

「俺はまともな方じゃないんでな」


 肩を(すく)めて笑う逢坂さんを、わたしは畏怖(いふ)の目で見上げることしかできなかった。

 ……そういえば、痛くないからってダンジョンで無茶をするような人なんだった。


 これからは、わたしがなんとかせねばなるまい。成果が出る前に死なれかねない。


「何でまた、そこまで……」

「……魔術師の世界で生きていると、特定の記憶を消される場面ってのは少なくない。攻撃を受けたとかじゃなく、そういう取り決めなんだよ。門外不出の神秘を守るための措置(そち)だ」


 なんとなく、漫画とかで目隠しをしたまま秘密の場所に連れていかれる、みたいなシチュエーションが脳裏に浮かんだ。

 あれをもっと厳重にしたらそうなるのだろうか。


「学院に入って早々、そういうことがあってな。それが(しゃく)でこの術式回路を設計した」

「学院? 魔術師の学校があるんですか?」


 何それ楽しそう。

 そしてずるい。魔法使いにはそんなのないのに。

 ……いや、実はあるのかもしれないけれど。わたしが知らないだけで。


「ああ。表向きは神学校だが」

「……それ、本物の宗教家の人が聞いたら怒りそうですね」

「いや、むしろ『本物』に怒られないようにそう名乗っている。……それに、聖書に()らないというだけで、間違ってはいないさ」


 そこで、ふっと会話が途切れた。

 逢坂さんの視線は、未だにわたしを見下ろしたままだ。


 薄明かりの中で細められた瞳は、今まで見たことがない色をしていて——本当にわたしを見ているのか、判別がつかなかった。


「…………」

「……逢坂さん?」


 声をかけると、逢坂さんは一度(まばた)きをして、視線を外す。

 手持ち無沙汰(ぶさた)のように灰皿に手を伸ばしたけれど、煙草はさっき消したばかりだった。


「……いや、何でもない」


 その横顔からはもう、さっきの色は消えていた。

 ……何だったんだろう?


 もしかすると学生時代に何かあって、それを思い出していたのかもしれない。

 わたしは思い返したときに遠い目をしないで済む大学生活を送りたいものだ。


「さて……時間が時間だ、今日はもう帰れ。駅まで送ってやる」


 そう言って、逢坂さんは部屋の中に戻っていった。

 わたしも脱いだ靴を手に持って、ガラス戸を閉めてからその背を追いかける。


 ——次ここに来るときは、わたし用のサンダルも用意しておこう。

 あと、今借りているスリッパは大きすぎて歩きにくいから、そっちも。


 持ち帰るためにまとめられた本の袋から目をそらしつつ、心のメモにそう記した。

2026/08/03


これにて第2章本編は終了です。

幕間と掲示板回、そして解説を挟み、第3章へと進みます。お付き合いいただければ幸いです。


そして夏休み期間中、更新を強化いたします。

まあ作者に夏休みなんてものはないのですが……

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