幕間2 遠き星影
駅の入り口に小さな背中が消えるのを見届けてから、逢坂一夜はアクセルを踏んで来た道を引き返した。
込み入った路地を抜け、車を駐車場に収める。それから階段を上り、三階の自宅に入った。
誰もいない部屋は、いつも通りの静けさに戻っていた。
玄関には、几帳面に揃えられた来客用のスリッパ。
テーブルの上には空になった寿司桶が二つ。
一夜はそれらを一瞥して、ベランダに出た。
煙草を咥え、ライターで火をつける。まだ吸い足りなかったところだった。
大きく吸って、吐く。お世辞にも美しいとは言えない路地の夜景に、紫煙がゆっくりと流れて消えた。
その行先を目で追いながら、一夜は少し前までここにいた少女を思い出す。
柊千世。
この怒涛の二日間の元凶である、魔女。
(——いや、命を救われておいてこの言い草はないな)
一夜はライターを仕舞う代わりに、ポケットから小瓶を取り出した。
その中に収められているのは、砕け散った金属片——千世が星幽魔力を流したことで破壊された、術式回路の残骸だった。
研究室で保管しようと思っていたものの、結局タイミングを逃して持ち歩き続けてしまっていた。
小瓶を目の前に持ち上げ、僅かな光に翳す。
中身の金属片は砕けただけでなく、ところどころが変質していることが見てとれた。
金属板が砕ける瞬間、回路に走る星のごとき輝きを、一夜の目は確かに捉えた。
魔術師の生涯をかけてもなお手が届かず、それでも追いすがるよりほかにない、魔法のきらめき。
あの光を、千世は誰かのために使いたいと言った。
そして今、一夜こそがその「誰か」である。
千世の態度からは、経験と知識からくる思慮深さは感じられない。きっと考えなしにそう言ったのだろうと、一夜も理解している。
柊千世という魔女は、自分がどれほどの存在なのか、あらゆる意味でわかってはいない。
一夜は小瓶を灰皿の脇に置き、もう一度煙草に口をつける。慣れ親しんだ苦味と辛味が口の中に広がった。
そんな存在を前にして——自分はどういう経緯でここに立っているのだったか。
ダンジョンが出現した十八年前、魔術界は荒れに荒れた。
当時小学四年生だった一夜は、世間の混乱もさることながら、両親も相当であったのを覚えている。
秘すべき神秘が全世界の大衆に晒されてしまったことによる陳腐化。
ダンジョン内のみに限定されながらも量産された超人。
エネルギーや食糧資源としての価値。
科学では説明がつかず、魔術師が製作した品にも劣らない、不可思議な品々の流通。
そんな新たなフィールドにおいて、地脈からの断絶と共にアドバンテージを失った魔術師たち。
やがて、魔術界のダンジョンに対する姿勢は、二つの派閥に分かれた。
ダンジョンを最も新しい神秘と定義づけ、その実態を解明するために——あるいは利権を目的として——積極的に研究対象とする者。
対して、ダンジョンを自らが追い求める神秘や人類が積み上げてきた叡智とは無関係な異物と断定し、不干渉を維持する者。
一夜が学院で師事した教授は前者であり——一夜は後者だった。
「…………」
それが今、こうして一人ダンジョン内魔術の可能性を追っている理由に思いを馳せ——自嘲を込めて一夜は口元を緩める。
千世は生まれ持った力を振るう理由を一夜に預けた。
自分の理由はそれに足るものなのか……今の彼に答えは出せなかった。
ならばせめて、結果で応えなければなるまい。
(あいつに見せたい術式がまだたくさんある。本だけでは術式の理解には程遠い、できるだけ多くのサンプルに触れさせなければ。他者の体内で構築した術式を感じ取るのには多少の訓練が要るが、あいつはどこまでできるのか。術式回路は俺が見せてやればいいが、それ以外はふさわしい魔術具を取り寄せて……いや、その前にダンジョン内で発動している事象を確認させて当たりをつけた方がいい。少なくとも文字形式ではないと思いたいところだが————)
気づけば、手元の煙草がフィルターの際まで短くなっていた。
思考が走ると煙草の減りが早い。悪い癖だ、と一夜は溜息をつく。
灰皿に押し付けようとすると、スマートウォッチの振動が一夜の手首を叩いた。
「……何だ」
煙草を始末し、画面の表示を見る。
そこに映された通知のタイトルに、一夜は目を細めた。次いで、ポケットからスマートフォンを取り出す。
探索者協会の関係筋から流れてくる、定期的なデータの更新を知らせるメールだった。
画面をスクロールしながら数字を追う。白く光る画面を眼鏡のレンズが反射していた。
「…………チッ」
予想通りの結果だった。
そして、それは今や最悪の意味を持つ。
危機意識という言葉をまるで知らなそうな千世の顔を思い出し、一夜は眼鏡のブリッジを押さえて再び溜息をついた。
自分は魔女だから平気だと、彼女は言った。
(だがな、柊。お前が真に警戒するべきは——)
そこまで考えて、一夜はかぶりを振ってスマートフォンをしまう。
世の中に知らない方がいいことがあるとしたら、間違いなくこれはその一つだろう。
長い指先が煙草の箱に伸びて、止まる。
三本目はさすがに躊躇われた。
煙草もない。スマートフォンもしまった。
手持ち無沙汰な頭は、放っておけば同じところに戻る。
千世が危険に晒されうる理由と、一夜が千世を必要とする理由は、結局のところ同じだ。
一夜は腰をベランダの角に預けて、空を仰ぐ。
薄らと曇りがかった夜空と白銀の月、そして瞬く星々は、まさに千世を思わせる色をしていた。
ベランダから連れ出し、駅まで送り届けてなお、まだその影がここに居ついているかのよう。
視線を下ろせば、そこには例の小瓶がまだ置かれている。
それを手に取って月光に翳すと、変質した部分が仄かに青く輝いた。
「…………なあ、柊」
思わず、その名が口から零れた。
当の本人は今頃帰路に就いているだろう。
ビルの三階には無人に見せかける魔術が働いていて、当然音も遮断されている。
その問いを拾い上げる者は誰もいない。
それでも問わずにはいられなかった。
「術式を組み上げ、検証し、失敗し、また組み直す……人間が神秘に手を伸ばすために必要な、その全てを省略して、ただ結果だけを現実に顕す」
人の生に囚われず、あらゆる理論や法則を置き去りにする、奇跡をもたらすもの。
「そんな存在を……人は何と呼ぶと思う?」
返事はない。
煙の残り香だけが、夜風に乗って薄れていった。




