第33話 魔術師の領域
翌日は過ごしやすく穏やかな陽気だった。
「んー……」
手鏡を開いて、前髪を指先で整える。
今日はいつもの白いリボンの代わりに、昨日届いたスカーフをヘアバンドとして巻いてある。
この柄にはどんな服が似合うか、ずいぶん鏡の前で悩んだものだ。
問題ないことを確認して、手鏡をぱちんと閉じ、カバンにしまう。
目に入る足元は昨日までのスニーカーではなく、引っ越しの荷物から発掘したストラップシューズ。
(……ちょっと気合入れすぎたかなあ)
昨夜の反省を踏まえ、どこへ連れていかれてもいいように、ちゃんとした恰好をしないとと思ったのだけれど。
待ち合わせの時間にはまだ少し早い。
逢坂さんには駅前のロータリーで待つよう言われたけれど……周りはバスやタクシーばかりで、一般乗降と書いてあるのはここだけだから、場所は合っているはずだ。
ロータリーには人がまばらにいて、たまに目の前に車が停まったかと思えば、人を降ろすか他の誰かを乗せるかして走り去っていく。
わたしも含めて、みんなシャツの上に上着一枚、という感じの装いである。
スマホを取り出してSNSのタイムラインを眺めるも、頭に過ぎるのは別のこと。
お母さんとの、両親との約束。わたしのダンジョン適性。魔法使いと魔術師。
考えてみると、わたしは約束を三つも破っているわけだ。魔法使いであることをバラし、自分から神秘に触れにいき、ダンジョン探索も今はやめる気はない。
親不孝すぎて乾いた笑いが出てきた。
せめてこの大学生活だけは、完璧にやり遂げなければ————
「おい」
ぼんやりしていたら、目の前に車が停まっていた。
助手席側の窓が下がっていて、見覚えのある銀髪が運転席から覗いている。
「……あ。こんにちは、逢坂さん」
「お前、ちゃんと周り見てたか?」
見てなかった。
「見てましたけど」
「嘘つけ」
即座に突っ込まれた。まあ、そりゃそうである。
「さっさと乗れ。後ろがつかえてる」
「はい」
助手席のドアを開けて乗り込む。
車内は広かったけれど、運転席に身体を押し込んでいる逢坂さんはやや窮屈そうだ。限界までシートやハンドルの位置を調整しているとみえる。
助手席と運転席のシートの位置が違いすぎて、いっそ面白い。
「シートベルト」
「はぁい」
ぱちんとシートベルトを固定したのと同時に、逢坂さんがシフトレバーを操作し、車が発進する。
今どきシフトレバー式は珍しいような気がする。その位置からで操作しにくくないのだろうか。
シートに身体を預けて一息つく。
ドリンクホルダーに置かれている見慣れないものは、空気清浄機か何かと……灰皿だろうか。
両親の運転する車にはもう何年も乗っていないし、タクシーに乗る機会もほとんどない。
他人の車に乗せてもらうというのはなかなかに新鮮である。
「昼飯は済ませたか?」
「あ、食べてきました」
「結構。うちに客に食わせられる飯はないからな」
どこへ行くのかは聞いていなかったけれど、今の発言からすると行先は逢坂さんのお家らしい。
やっぱり本とか資料とかがいっぱいあったりするのだろうか。
魔導書? 魔術書? みたいなものもあったりして。
わくわくしながら流れる景色を眺めていると、隣から視線を感じた。
「どうかしました?」
「……いや、何でもない」
逢坂さんはそれだけ返して、視線を前に戻してしまった。
何だろうとは思うものの、運転の邪魔をするわけにはいかないので、わたしも視線を窓の外に戻す。
駅を挟んで向こう側は開放的で洗練された雰囲気だったけれど、こちら側はわりと細々とした建物が並んでいる。
右も左も居酒屋やご飯屋さんばかりで、食事には困らなさそうだ。
わたしとしては、こちらの方がなじみ深い雰囲気である。
車はいつの間にか細い路地に入っていて、やがて小さなビルの前で減速した。
一台分の駐車スペースに、この大きな車が器用に収められる。
「着いたぞ」
そう言って逢坂さんが降りていく。
わたしもドアをぶつけないように慎重に降りると、ピッという電子音と共に車のライトが一度光った。施錠したのだろう。
「ここが……?」
「ああ。お待ちかねの、魔術師の根城だ」
……楽しみにしていたのはバレバレだったらしい。
見た目はどこにでもありそうな雑居ビルである。
三階建てで、一階は駐車場とエントランスが大部分を占めているようだ。
逢坂さんの背中を追ってビルの入り口を通り抜ける。
「ああ、そうだ。これ持っとけ」
振り返った逢坂さんから、何かを差し出された。
「これは?」
「通行証みたいなもんだ。二階から上はそれがないと入れない」
受け取ってみれば、それはダンジョンのフロアボスが落とすプレートに似たつくりだった。
ラインストーン大の穴はなく、その代わり全体に幾何学的な模様が彫られている。
プレートは一応いつも首から提げているので、同じ紐に通しておくことにした。
「いいか、くれぐれもなくすなよ」
「わかってます」
大切な場所の鍵を落とすのに等しいだろう。
わたしが今住んでいる部屋だって、鍵を受け取るときに不動産の人に色々と言われたものだ。ドアの鍵ごと取り替えなきゃいけなくて、たいそうな費用を請求されるとか。
「二階が研究室。三階が……プライベートエリアだ」
「つまり逢坂さんのお家ですね」
「……まあ、そうなんだが」
逢坂さんがすごく微妙な顔でこちらを見下ろしている。
…………ああ、なるほど。
「変なことには使わないので安心してくださいね」
「……そりゃどうも。行くぞ」
逢坂さんの後について、狭い階段を上る。
一階分を上りきると、目の前には重そうなドアがひとつ。
逢坂さんが取っ手に手をかけて、ちらりとこちらを見た。
「さっきの通行証は身に着けてるな。肌に触れるようにしているか」
「はい」
「なら大丈夫だ」
ドアが開く。
「——お邪魔します」
一歩、足を踏み入れる。
ドアの向こうには、思ったより広い空間が広がっていた。
ワンフロアまるごとがひとつの部屋になっている。
まず目に入ったのは、壁一面の本棚。
背表紙の読めない古い書物から、付箋だらけのノートまで、ぎっしりと詰まっている。
作業用らしき机の上には、石だとか金属だとかの小さな板がいくつも並べられていた。
さっき受け取った通行証と似てるような、似てないような。ここからじゃよく見えない。
奥の壁にはダンジョンの地図が何枚も貼られていた。
基本は探索者アプリのマップを印刷したものようだけれど、びっしりと何かが書き込まれている。
本棚に入りきらなかったのであろうファイルや紙束なんかが、机の上からあふれて床にまで積まれている。
ただ、その配置にはなんとなく統一感が見て取れた。
なんとなく、高校の職員室を思い出した。
物はたくさんあるけれど、一定の秩序があるというか。
「……すごい」
気づいたら声に出ていた。
逢坂さんは、これを全部ひとりで……?
「ほう。魔法使いの目から見てもか?」
「はい……圧倒されます」
「そうか」
逢坂さんはそれだけ返して、奥へ歩いていった。
わたしはもう少しだけ入口に立って、この景色を見ていた。
紙とインクのにおいが入り混じっている。
窓はなくても空調はしっかりしているのか、空気が淀んだ感じはしなかった。
逢坂さんがこの部屋をひとりで管理しているのは事実だろう。それだけでじゅうぶん尊敬に値する。
でも、ここには逢坂さんと同じ研究をしている人たちの十八年——いや、もっと前から積み重ねられてきたものを感じる。
わたしが両親の才能を受け継いだように、魔法使いにだって継承の概念はあるけれど……何世代もかけて蓄積していくとか、そういう感じではないのだ。
「どうした、さっさと入ってこい」
「あ……はいっ」
概略だけで済ませるとしても、その全てを知るには、きっと今日だけじゃ足りない。
逢坂さんに渡された通行証を、服の上からそっと握りしめた。




