幕間1-2 明くる朝のこと
まだ朝陽が昇る前の、薄暗い時間だった。
ゲストルーム上段の個室で、かちりとシャッターが開く音がする。続いて梯子を下りる気だるげな足音。
降り立った蓮見那月は、寝間着のまま大きく背伸びをして、首をぐるりと一周させた。
「……五時はまだ早ぇて」
そう小さくぼやく。引退してしばらく経っても、部活で叩き込まれた早起きはこびりついて離れない。
共有スペースに置いていた靴に足を入れかけて――那月は、ふと動きを止めた。
向かいの個室。柊千世が眠っているはずのそこのシャッターが開いている。
「あれ」
部屋の主は不在で、ベッドは空っぽだった。
カバンも、ハンガーに吊るされていたローブもない。
顔でも洗いに行ったのかと思うものの、それにしては荷物までなくなっているのは妙だと、那月は部屋の中を覗き込んだ。
きれいに整えられたシーツの上に、畳まれた寝間着と小さな紙が一枚。その上に淡く光る魔石がいくつか置かれている。
「…………」
しばし固まったあと、那月はその紙を手に取った。
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みなさんへ
昨夜のお話、改めて考えましたが、私はどうしてもお受けできません。
直接お伝えすべきとは思いましたが、これ以上ご迷惑をおかけしたくないので、勝手ながらお先に失礼します。
遥香ちゃん、那月ちゃん、茜ちゃん。卒業まで一緒にいられなくてごめんなさい。
今までありがとうございました。みなさんの今後の活躍と幸せを心から願っています。
食事と宿をいただいたお礼として、魔石を添えておきます。お納めください。
柊 千世
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「……へ?」
もう一度、最初から読み返す。
断るとは言っていたものの、夜のうちに荷物をまとめて出ていくほどだとは思っていなかった。
ぐしゃりと前髪をかき上げて、那月は息を吐く。
それから、いつもよりずいぶん静かな足取りで、上の個室への梯子に手をかけた。
「遥香」
シャッターをこつこつとノックする。
「遥香、起きてくれ」
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「…………そうですか」
八人は昨日と同じように、ダイニングでテーブルを囲んでいた。その中心にあるのは、一枚の手紙である。
昨日は全て埋まっていた椅子も、今はひとつだけ空いていた。
遥香、那月、茜は揃って暗い表情。茜など今にも泣きそうになっている。
清野沙苗は手紙を見つめて考え込み、鈴村柚希は残念そうに唇を尖らせ、ヒルデ・フォルスターは半分眠っている。
神林正光と宮森ひなたは、一見して苦笑といった様子だった。
「柊さんは夜のうちに?」
「……たぶん。気づかなくてごめんなさい。あたしたち、同じ部屋にいたのに」
「いえ。皆さんが謝ることではありません」
清野は手紙を手に取って眺めてから、再びテーブルに置き、眼鏡の位置を直す。
その片手には一冊の古めかしいノートが抱えられていた。
「柊さんに連絡は取れますか?」
「メッセージは送りましたけど、既読はついてないです。あたしたちじゃ通話はできなくて……」
「……ダンジョンから出るか、協会の拠点で権限を付与する必要がある、ということですね」
清野は目を閉じて一呼吸おくと、一同を見回した。
「一刻も早く柊さんの安否を確認しなくてはなりません。彼女は夜のダンジョン、しかも第七層を一人で移動していたことになります」
その言葉に遥香たちの表情がますます硬くなった。
最悪の事態を想像してしまったのだろうと、誰の目にも容易に推測できる。
「確かにそうだ。俺たちは柊さんに直接連絡できないし、ここからだと第五層のキャンプに戻るのが早いか? それとも第十層のボスを倒して地上に戻った方が……?」
「……私は、そっとしておくべきだと思います」
口を挟んだのは宮森だった。
「この手紙を書いた柊さんの意思を尊重しませんか? 何も考えなしに出ていくような子には見えませんでした。お断りされた以上、関わらないであげるのが優しさだと思うんです」
まっすぐと目を合わせて言い切る宮森に、神林はたじろぐ。
「まあ……一理あるな。これだけしっかりした書置きを残せる子だし、帰還アイテムを持ってただとか、何か備えがあってのことかもしれない」
「……それはそうかもしれませんが、しかし――」
神林の意見が別方向に傾くのを見て、清野は食い下がろうとする。
だが、神林は宮森の意見に理を見たようだった。
「夜のうちに出ていくくらいだから、もう顔も見たくないってことだろ。ひなたの言う通り、そっとしておこうぜ」
「…………」
黙り込んだ清野、そしてそっと胸をなでおろす宮森をよそに、神林は遥香の方に向き直る。
「遥香。友達が心配なのはわかるけど、こればっかりは柊さんの気持ちを優先してやろう。ダンジョンから出たら遥香から連絡してみて、柊さんがダンジョンから出てきたかも協会の人に聞けばいいさ」
「……はい」
遥香は俯いたまま、小さく頷いた。
「そもそもさ、これが普通だよな? いきなり知らない男の嫁の一人になれとか言われたら嫌で当たり前だよな? 沙苗たちは何でかノリノリだけどさ……遥香も、蓮見さんに芒原さんも。本当に、その……いいのか?」
神林がそう問いかけながら、遥香たちの顔を順番に見る。
その問いを聞いた清野は、咳払いをひとつ。そうして表情を整えて、口を開いた。
「その通りです。昨夜は突然のお話で、皆さんも戸惑っていらっしゃることと思います。柊さんの反応も無理からぬこと……改めて申し上げますが、無理にとは申しません」
遥香が顔を上げる。そして、他の二人と視線を交わせた。
「まず、正光様が素晴らしい方であることは間違いありませんが……」
「おいおい」
「それ以外に実利の面でも、探索者としての将来性の面でも、皆さんには決して悪い話ではないと存じます」
神林の突っ込みに構わず、清野は美しく微笑む。
「柊さんの話と同じこと。何よりも優先されるべきは、皆さん自身の気持ちです。そうでしょう?」
その一言と同時に、三人の瞳に一瞬だけ、不穏な光が灯った。
神林を囲む女性たちの中に自分がいる未来が、彼女たちの脳内に広がっていく。
(あ……でも、清野さんに……何か聞かなきゃいけないことが、あったような……)
唯一、遥香だけが頭の隅にひっかかりを覚えた。
しかし、ついぞそれを思い出すことはなく、やがて意を決したように神林に向き直る。
「――正光先輩」
「ああ」
「あたし、先輩のこと、前からずっと好きでした。至らない後輩ですけど、あたしも先輩のそばにいていいですか?」
「遥香……お前の気持ち、俺も嬉しいよ。改めてよろしくな」
「…………はいっ!」
その光景に那月は小さく口笛を吹き、茜は頬を赤らめて目を輝かせる。
しかし清野から目くばせされていることに気づくと、二人で姿勢を正し、遥香の両隣に並ぶ。
「あー……ぶっちゃけおれは遥香のおまけみたいなもんだと思うっすけど。戦力としては頑張るんで、よろしくお願いします」
「ふ、不束者ですが、よろしくお願いします……!」
「蓮見さん、芒原さん……いや、那月、茜。おまけだなんてとんでもない。二人に報いれるように、俺も精一杯頑張るよ」
「……はぅっ……」
名前を呼ばれて倒れかけた茜を支えながら、正光たちは笑い合う。
柚希は「これで決まりね!」と楽しそうに笑い。
ヒルデはようやく目を覚まして小さく拍手をして。
ひなたは胸に手を当てて目を伏せ。
沙苗は眼鏡を正しつつ、目を細めて微笑んだ。
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ダイニングに和やかな空気が広がる頃、ゲストルームには誰もいなかった。
カプセルホテルのように連なった四つの個室のうち、三つはシャッターが下りているか、荷物が広がったままになっている。
残りの一つだけが、シャッターが上がった状態で、綺麗に整えられていた。
――まるで、最初から誰もいなかったかのように。
これにて第1章は終了です。
第2章からは週一更新を目指していきます。
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