黄昏の亡命
リコルヌの空は、燃え盛る火の粉と、価値を失った紙幣の灰で濁っていた。
かつて「黄金の檻」と呼ばれた贅の極みは、一夜にして、互いの喉を掻き切り合う獣たちの檻へと成り果てた。
(……解析。都市機能、完全停止。暴徒の拡散率、九八パーセント。……秩序の再定義は不可能)
俺、アルド・ヴァイスは、診療所の二階からその地獄を見下ろしていた。
俺が地下競売場で『滴』の価値基準を解体した結果だ。この街を支えていた魔法的な信用取引は、基盤となる「アイリスの苦痛」がただの汚泥に還ったことで、連鎖的に崩壊した。
貯えが、権利が、明日への約束が、すべて砂のように指の間から零れ落ちていく。その喪失感に耐えきれない人間たちが、今、階下で狂気となって暴れ回っている。
「……アルド、さん。準備、できたよ……」
背後から、震える声がした。
エレナだ。彼女は、ハンスがいつも使っていた古い革の救急鞄を、壊れ物を扱うように抱きしめている。その隣には、俺のコートに包まれ、椅子に腰掛けたまま虚空を見つめているアイリスの姿があった。
「……ハンスはどうだ」
「……眠ったままだよ。……でも、さっきより腕が冷たい。……ねえ、本当に、あんな薬を使ってよかったの?」
俺は答えなかった。
ハンスの右腕に定着させた、あの琥珀色の静旨。あれはアイリスの絶望を濃縮した劇薬だ。それを使わなければハンスは死んでいた。だが、それを使ったことで、ハンスの命はアイリスを蝕むシステムの一部に組み込まれてしまった。
救うために、犠牲を強いる。
繋ぐために、別の何かを切り刻む。
ハンスが最も嫌悪したはずの「算術的算術的医術」を、俺は彼に施したのだ。
「……行くぞ。リコルヌはもう、帝国の監視網からも外れる。……ただの、ゴミ捨て場になるからな」
俺は、意識のないハンスを背負い、左腕でアイリスの細い腰を引き寄せた。
右腕は、依然として黒い霧を吹き出している。
自分の肉体が、自分の意志とは無関係に、周囲の空間を「解体」しようと疼いている。俺自身が、歩く災害へと変質し始めていた。
診療所の階段を下りると、一階の待合室には、すでに数人の暴徒が侵入していた。
彼らは薬棚をひっくり返し、金目のものを探していたが、俺たちの姿を見るなり、血走った目を向けた。
「……おい、そこの死神。その娘を置いていけ」
「そいつは『滴』の出所だろ? 分かってるんだぞ、そいつを売れば、俺たちの失った金が戻るんだ!」
(……解析。対象、人間、三名。
構成:肉、骨、そして醜悪な欲望。
……脆弱点、頸椎。一撃で『終了』できる)
「……どけ。……俺は今、ひどく気分が悪い」
俺の右腕から、パチパチと黒い火花が散った。
「……アイリスを、ただの『商品』だと口にしたその舌……構造から引き抜いてやろうか」
「なっ……なんだ、その腕は……!? ぎ、ぎゃああああッ!」
俺が手をかざすまでもなかった。
俺から溢れ出した負の魔力が、彼らが手にしていた鉄パイプや包丁を、瞬時に「錆びた粉」へと変え、彼らの皮膚を焼いた。
恐怖に顔を引きつらせた男たちが、悲鳴を上げて逃げ出していく。
今の俺には、彼らを追いかけて殺す価値さえない。
街へ出ると、大通りは阿鼻叫喚の図だった。
昨日までドレスを着ていた貴婦人が、泥まみれになって金貨の破片を拾い集め、それを浮浪者が奪い取る。帝国の整然とした支配の下では決して見られなかった、醜くも生々しい「人間」の姿。
「……お兄ちゃん。……寒い。……真っ暗だよ」
アイリスが、無機質な声の中に、微かな震えを混ぜた。
魂が抜けたはずの彼女の奥底で、まだ何かが、この街の悲鳴に共鳴しているのか。
それとも、これは神のシステムが見せている、ただの擬似的な反応か。
(……解析不能。……だが、俺にはわかる。……お前はまだ、そこにいる)
俺は、彼女を抱く力を強めた。
街の南門へと向かう途上、俺は一人の男とすれ違った。
ボロを纏い、顔の半分を布で隠したその男は、狂騒に狂う群衆の中で唯一、静かに立ち尽くし、俺を見つめてる。
(……解析。対象:不明。……魔力反応、零。……だが、この『因果』の重みは……)
「……くくく。……いい眺めだね、ヴァイス君」
低く、心地よい声。
ルシファー。あいつが、変装してそこにいたのだ。
俺は立ち止まり、ハンスを背負い直しながら右腕の出力を上げていく。
「……ルシファー。今ここで、その首を跳ねてやろうか」
「おっと、怖いね。……でも、残念ながら今の私はただのホログラム(投影)だ。……君が街を壊したおかげで、連邦への『避難民』が大量に発生した。……私の計画通りだよ。……戦争には、盾となる人間が必要だからね」
ルシファーが、楽しげに笑う。
「……ヴァイス君、連邦へ行きなさい。……そこには君の欲しがるお姫様お姫様も、君と同じ『リセットボタン』を欲しがる、もっと理不尽な連中がいる。……王国、魔王軍、そして帝国最強の執行官たち……。……君が絶望を深めれば深めるほど、彼女のシステムは完成に近づく」
「……目的はなんだ……なぜ、俺にそれを教える」
「……面白いからだよ。……設計図の通りに動く世界なんて、美しくないだろう?」
ルシファーの姿が、夕闇の中に溶けるように消えていった。
後に残されたのは、遠くで燃え上がるリコルヌの火柱と、冷たい夜風だけだった。
「……アルドさん。……あいつ、誰なの?」
エレナが、怯えながら尋ねた。
「……悪魔だ。……この街を腐らせ、俺たちを次の地獄へ誘う、ただの案内人だ」
俺たちは、燃え盛る連合の象徴を背に、南の国境へと向かった。
そこには、峻険な山脈と、絶え間ない紛争が続く多種族の土地――連邦が広がっている。
アイリスの「中身」を取り戻すための、あるいは、世界を本当の意味で終わらせるための旅。
ハンスの呼吸は、さらに浅くなっていた。
エレナの瞳からは、光が失われかけていた。
そして俺の右腕は、もはや「人間」のものではなくなっていた。
アルド・ヴァイス。
俺の『創造』は、この夜、連合という一つの時代を終わらせた。
次は、さらに巨大な『構造』――国家と種族、そして神の意志が衝突する「連邦」という名の煉獄へ、俺は壊れた少女を抱えて踏み込んでいく。
リコルヌの街から響く悲鳴が、遠ざかる。
俺の脳内には、新しい戦場の、血生臭い数式が書き込まれ始めていた。




