崩壊の残響、あるいは聖女の形をした残骸
右腕が、黒い稲妻を撒き散らしながら絶え間なく脈動している。
腕の中に抱えた少女――アイリスの身体は、あまりにも軽かった。帝国で彼女を背負って逃げたあの夜、背中に感じた確かな重みや、震える鼓動はどこにもなかった。
(……解析。アイリス・ヴァイス……個体名、抹消済み。
構成:タンパク質、カルシウム、水分。
精神構造:空白……ただの、素材
視界を走る青白い数式が、残酷な事実を数字として俺の網膜に叩きつける。
救い出した。奪還した。ルシファーの『システム』を解体し、彼女を自由にしたはずだった。だが、俺が抱いているのは、ただの「アイリスの形をした入れ物」に過ぎない。
「……現在……浄化プロセス……停止中……。……再接続を……要求します……」
彼女の薄い唇から、感情の一切こもらない無機質な声が漏れる。
俺を呼ぶ声ではない。
俺を「お兄ちゃん」と呼んでいたあの少女は、この肉体のどこにもいなかった。
俺は、自分の奥歯が軋む音を聞いた。
(……救っただと? ……笑わせるな、アルド・ヴァイス。お前は、彼女の『空の器』を奪うために、この街を地獄に変えただけだ)
地下から地上へ這い上がると、リコルヌの街は文字通りの煉獄と化していた。
俺が『滴』の価値を解体した影響は、一瞬で街全体に伝染した。黄金が鉄屑に変わり、命を繋ぐはずの薬が泥に還った。欲望という名の鎖で繋がれていた社会の構造が、俺という「不純物」によって跡形もなく引き裂かれたのだ。
「返せ! 俺の金を、俺の救いを返せッ!」
「殺せ! あの男が『滴』を独占しているんだ!」
暴徒と化した市民たちが、血走った目で俺に群がってくる。
昨日まで商談に耽っていた商人。祈りを捧げていた信徒。彼らは今、ただの飢えた獣となり、俺が抱える「聖女の器」を奪い取ろうと、泥濘を蹴って迫ってくる。
(……解析。対象:暴徒。個体数一六、一七、一八……増加中。
殺傷、承認。……解体、開始)
俺は、左腕一本でアイリスを抱きかかえ、右腕を解き放った。
「――邪魔だ。……お前たちの『構造』など、最初から壊れている」
黒いノイズが、俺の指先から全方位へと噴き出した。
物理的な衝撃ではない。
空間の定義そのものを歪ませ、触れた者の肉体を「部品の集合体」へと還元する解体の波。
悲鳴を上げる暇さえ与えない。
俺の前を塞いでいた男たちの身体が、まるで砂細工のように崩れ落ち、泥濘の中に溶けていく。
「……ひ、ひいいっ! 死神だ! 本当の死神が来たぞ!」
恐怖が、怒りを上書きする。
俺は、逃げ惑う群衆を「障害物」として処理しながら、迷うことなく診療所へと向かった。
雪の帝国よりはマシだが、この泥だらけの街もまた、俺にとってはただの不快な設計図の一部でしかなかった。
診療所の扉を蹴り開ける。
そこには、ハンスの傍らで顔を真っ白にしたエレナが立ち尽くしていた。
「……アルド、さん? その子は……?」
エレナの視線が、俺の腕の中にいるアイリスへと向けられる。
かつて共にハンスの世話をした少女。
だが、今のエレナには、アイリスが人間には見えていないようだった。
彼女の直感が、アイリスから放たれる「神のシステム」の冷酷な気配を嗅ぎ取っていた。
「……身体は取り戻した。ハンスはどうだ」
「……先生、さっきから、うなされてるの。……アルドさんが持ってきたあの『石』を使った場所から、腕が……変な色になって……」
俺は、ハンスの寝ているベッドへ歩み寄り、彼を『解析』した。
――生体反応、微弱。
――右腕の構造:アイリスの『拒絶』によって「静止」中。
――副作用:意識の混濁、魔力浸食。
(……当たり前だ。アイリスの苦痛を吸い込んでいるんだ。……ハンス、あんたはアイリスの犠牲の上に立っているんだぞ。……起きろ。起きて、俺を殴れよ)
俺は、ハンスの胸元を強く掴みたかった。
だが、アイリスを抱いたままではそれもできない。
俺の『創造』は、一人の少女を空っぽにし、一人の恩人を仮死状態にし、数万の人間を路頭に迷わせた。
「……エレナ。荷物をまとめろ。ここを出る」
「え? でも、先生は動かせないよ! 街の外は暴徒で溢れてるし、帝国だって……」
「……ここにいても、死ぬだけだ。リコルヌはもう終わった。ルシファーが、この街をアイリスを煮詰めるための『釜』として使っていた。……その釜は、俺が叩き割った」
俺は、アイリスの身体をそっと椅子に座らせた。
彼女は操り人形のように、姿勢を保ったまま微動だにしない。
その濁った瞳に、俺の顔は映っていない。
「……行く先は、連邦だ。……魔王軍がいる、あの呪われた戦場だ」
「連邦!? 何を言ってるの、あそこは今、戦争の真っ最中で……」
「……そこにしか、アイリスの『魂』を解析できる奴はいない。……ルシファーが言っていた。本当の地獄はそこにあると。……なら、そこへ行く。地獄の続きを『解析』し、彼女を元に戻す方法を……奪い取る」
俺の右腕から、黒い煤がパラパラと床に落ちる。
自分の肉体が崩壊を始めているのがわかる。
だが、俺は止まれない。
「生命は作れない」というこの世界のルールを、俺はまだ認めていない。
「……アルドさん。……あんた、本当に……ハンス先生が言ってた『リセットボタン』なの?」
エレナが、震える手でハンスの救急鞄を握り締めた。
俺は答えなかった。
俺がボタンなのか、それとも、ただ世界を汚すための泥筆なのか。
そんなことは、どうでもよかった。
「……一時間後に発つ。……行きたくなければ、ここに残れ。……だが、俺は行くぞ。アイリスを抱えて、地獄の最深部まで」
俺は、窓の外で燃え上がるリコルヌの街を見つめた。
黄金の都は、今やただの黒い煙の塊だ。
俺の『解析』は、次の戦場――連邦の、血生臭い因果をすでに捉え始めていた。
アルド・ヴァイス。
俺の、冷徹な独行は終わった。
空っぽの少女と、死に損ないの恩人、そして、絶望を知る助手。
俺たちは、崩壊する連合を後にし、大陸最大の激戦地へと向かうための準備を始めた。
背後でアイリスが、再び無機質な声で呟く。
「……現在……同期率……九二パーセント……。……最適化を……開始します……」
その声が、俺の耳には、亡霊の囁きのように聞こえていた。




