虚ろな器
ルシファーが消えた後の地下最深部は、耳を打つような静寂に包まれていた。
破壊された「アイリスの模造品」の残骸から、琥珀色の魔力の雫が床に滴り、不気味な光を放っては消えていく。
(……警告。魔力残量、一・二パーセント。思考維持限界を突破。……視界の強制モノクロ化を実行)
俺、アルド・ヴァイスの視界から色彩が抜け落ちていく。
過剰な『解析』と『解体』の代償だ。脳が焼けるような熱を帯び、鼻の奥から鉄の匂いが立ち上る。右腕はもはや俺の意志に従わず、ただ黒いノイズを周囲に撒き散らすだけの、異質な「器官」と化していた。
だが、俺の『解析』は、瓦礫の向こう側――ルシファーが最後に指し示した場所にある「心臓部」を、正確に捉えていた。
「……そこに、いるのか。アイリス」
俺は、鉛のように重い足取りで、地下室の最奥へと歩みを進めた。
そこには、大理石の柱に囲まれた聖域のような空間があった。中心に鎮座するのは、巨大な円筒形の硝子容器。そこにはリコルヌ中の魔力ラインが集中し、絶え間なくアイリスの『苦悩』を吸い上げ、上層へと供給し続けていた。
俺は、硝子容器の前に立った。
中にいたのは、紛れもなく、あの帝国編で奪われた少女――アイリスだった。
彼女は、数多の管に繋がれ、無機質な液体の中に浮いていた。
その顔は穏やかで、まるで長い夢を見ているかのようだ。
(……解析。対象:アイリス。……個体認識。……構造、確認)
俺の視界に走る青白い数式が、狂ったように数値を弾き出す。
だが、その数値は、俺が知っている「アイリス」のものではなかった。
――生体反応:微弱。
――魔力波長:神のシステムと完全同期。
――精神構造:……欠落。
「……なんだ、これは。……どういうことだ、解析しろ! 答えろ!」
俺は硝子容器を拳で叩いた。
『解析』の答えは、残酷なまでに明確だった。
目の前にいるのは、アイリスの肉体だ。俺が壊し、ハンスが繋ぎ、そして帝国が奪った、あの少女の肉体そのものだ。
だが、その内側には、彼女の意志も、俺を呼ぶ声も、恐怖も、悲しみも存在しなかった。
彼女の魂――『構造の核』は、ルシファーの手によって、あるいは神のシステムによって、すでに「書き換え」を完了していた。
今の彼女は、世界をリセットするためのプログラムを走らせるための、ただの**「虚ろなオペレーティング・システム」**に過ぎない。
「……器器だけ、残したのか。……ルシファー、お前は……!」
俺は、左手で硝子を掴み、そのまま『解体』の術式を叩き込んだ。
粉々に砕け散る硝子。溢れ出す防腐液。
俺は、崩れ落ちる彼女の肉体を、震える腕で受け止めた。
軽い。
あまりにも軽い。
かつて雪山で背負った時の、あの泥臭い温もりも、必死に俺の服を掴んでいた指の力も、今の彼女にはなかった。
抱き上げた彼女の肌は、ハンスが繋いだ右腕と同じように、生気のない冷たさに支配されている。
「……アイリス……俺だ……アルドだ。……答えろ、アイリス!」
俺の声は、地下室の空洞に虚しく響くだけだった。
彼女の濁った瞳は開かれることなく、ただ一定のリズムで、機械的な魔力の脈動を繰り返している。彼女の口から漏れるのは、俺を呼ぶ言葉ではなく、世界の終焉を告げるための「エラーコード」の断片だった。
「……現在……同期率……九一パーセント……。浄化プロセス……継続……」
無機質な、彼女のものではない声。
俺の心臓が、鋭い氷を突き立てられたように凍りついた。
身体は取り戻した。だが、中身はすでに神の側に奪われていた。
(……ハンス。……あんたなら、どうした。……魂を抜かれたこの『素材』を、あんたならどうやって『繋いだ』んだ)
答えは返ってこない。
俺は、感情を殺したまま、アイリスの身体をコートで包み、しっかりと抱きかかえた。
地下室の天井が、俺の『解体』の影響で崩れ始め、瓦礫が降り注いでくる。
「……戻るぞ、アイリス。……お前の『心』を、俺が必ず、作り替えてやる」
俺は、崩壊する地下室を後にした。
地上へと続く階段を駆け上がると、そこには地獄のような光景が広がっていた。
経済が崩壊し、通貨が紙屑と化したリコルヌの街。
暴徒と化した市民たちが、昨日までの主をなぶり殺し、琥珀色の『滴』を求めて奪い合っている。
俺が『解体』したシステムの残骸が、街全体に狂気を伝染させていた。
「……死神だ! あの男が『滴』を奪ったんだ!」
「返せ! 俺たちの救いを、俺たちの金を返せ!」
飢えた獣のような目をした群衆が、俺を包囲する。
彼らの視線は、俺が抱えているアイリスの身体に注がれている。
彼らにとって、彼女はもはや一人の少女ではなく、高価な『薬の原料』にしか見えていない。
「……解析。対象:暴徒。数、一四〇。……生存価値、なし」
俺の右腕から、ドス黒い魔力が噴き出した。
情けなど、もう残っていない。
俺はアイリスを抱いたまま、立ち塞がる者たちを、ただの「構造物の障害」として、冷徹に『解体』しながら進んだ。
血と、叫びと、絶望の泥濘を抜けて。
俺は、エレナとハンスが待つ、あの薄汚れた診療所へと向かった。
俺の『創造』は、この日、救ったはずのヒロインの「空っぽの肉体」を抱きしめながら、さらなる深い闇へと堕ちていった。
救済の終わりは、新たな絶望の幕開けに過ぎなかった。




