鏡像の聖女
地下競売場の騒乱が、遠い地の底の出来事のように遠のいていく。
金貨の輝きを失い、泥を掴んで絶叫する商人たちの声は、厚い大理石の床に遮断され、ここ地下最深部には、ただ一定のリズムを刻む「機械の拍動」だけが響いていた。
(……解析。ノイズレベル、臨界突破。……思考の同期が……アイリスと混ざる)
俺、アルド・ヴァイスの右腕は、もはや制御不能なほどに黒い稲妻を放ち、周囲の壁を、空気を、存在そのものを『食らって』いた。
眼前に立つ男――ルシファーは、俺の破壊衝動を浴びながらも、まるで音楽を鑑賞するかのような優雅さでそこに佇んでいる。
「……経済そのものを無に還すなんて。あまりに非合理的で、あまりに暴力的だ。……君のその『筆』は、壊すためにあるのかい? ヴァイス君」
ルシファーが、その薄い唇に嘲笑を浮かべて俺の名前を呼んだ。
その声には、帝国執行官ゼノのような無機質な合理とも、ハンスのような不器用な情とも違う、底知れない「愉悦」が混じっている。
「……お前が、彼女を……アイリスを、こんな機械の一部にしたのか」
俺の声は、喉の奥で押し潰された獣の唸り声のようだった。
俺の『解析』は、目の前のルシファーを超え、彼の背後に鎮座する巨大な魔導装置を捉えていた。それは、アイリスという生命の『構造』を、連合の経済という『概念』へ変換するための、吐き気を催すほど緻密な変換器だ。
「心外だな、ヴァイス君。私はただ、彼女が放つ『不要な叫び』を、有効な『価値』へと翻訳してあげただけだよ。……君だって、あの医者を繋ぎ止めるために、私の商品を喜んで使ったじゃないか」
「……黙れッ!」
俺は踏み込んだ。
右腕から溢れ出す黒いノイズを、一本の槍のように収束させ、ルシファーの胸元へと突き出す。
構造解析、全出力。
対象の因果を断ち切り、その存在の定義を強制的に『終了』させる一撃。
だが。
――ガリ、と嫌な音がして、俺の右腕が空中で静止した。
見えない壁に阻まれたのではない。
俺の『解体』の波長を、全く同じ『定義』で打ち消す「何か」が、ルシファーの前に立ちふさがったのだ。
「……なっ、解析……不能……!? 構造データが、俺と……完全に一致している……?」
俺の視界の中で、ノイズの霧が晴れていく。
そこにいたのは、ルシファーではない。
一体の、少女の姿をした人形だった。
銀色の金属と、琥珀色の魔力回路で編み上げられたその顔は――プロローグのあの日、俺が壊しながら救った少女、アイリスと寸分違わぬものだった。
「……アイリス……?」
俺の喉が、引き攣るように鳴った。
人形の濁った瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
そこには意志も感情もない。ただ、俺の右腕と同じ、黒いノイズの奔流が渦巻いている。
「紹介しよう。最新の『滴』精製ユニット、試作零号機。……君が帝国から奪い損ねた『聖女』の生体データと、君自身の『創造』の波形を混ぜて作った、私の自信作だよ。……さあ、ヴァイス君。自分の『罪』と、殺し合ってもらおうか」
ルシファーが指を鳴らした。
瞬間、アイリスの姿をした人形が、俺の『解析』すら追いつかない速度で跳ねた。
(……回避、不能! 防御構造、展開――ッ!)
ドォォォォン!!
俺が咄嗟に創り出した物理障壁が、人形の放った「一撃」で紙屑のように粉砕された。
吹き飛ばされ、大理石の柱に背中を叩きつけられる。
肺から空気がすべて絞り出され、視界が真っ赤に点滅した。
(……痛い。……痛い、お兄ちゃん。……助けて)
脳内に、人形の攻撃と同期してアイリスの「悲鳴」が流れ込んでくる。
これは物理的なダメージではない。
俺の構造そのものに、アイリスという呪いを直接流し込む精神的な解体だ。
「……はあ、はあ……っ。……アイリス……俺の、解析を……コピーしているのか……?」
俺は血を吐きながら立ち上がった。
人形の動きは、俺が『解析』で見抜こうとする「最適解」を、先回りして潰していく。
俺が『創造』しようとする武器の構造を、彼女が同じタイミングで『解体』して無効化する。
自分の影と戦っているような、終わりのない泥仕合。
「無駄だよ、ヴァイス君。彼女は君の『絶望』を演算して動いている。君が自分を責めれば責めるほど、彼女の精度は上がり、その拳は君の『急所急所』を的確に穿つ」
ルシファーが、舞台の上から見下ろすように冷たく語りかける。
「君が連合の経済を壊したせいで、地上では数万の人間が明日のパンを失った。……その数万の『恨み』のデータも、今、彼女の回路に流し込んでいる。……君の正義が、どれほどの人を殺したか。その重みを、彼女の拳で味わうといい」
人形が、再び動いた。
その小さな掌が、俺の心臓の「脆弱点」を正確に捉える。
俺にはわかる。この一撃を受ければ、ハンスが繋いでくれた俺の命の回路は、今度こそ完全に崩壊する。
(……解析。……アイリスの顔をした、ただの『偽物』。……壊せ。壊して、本物本物を救いに行け!)
だが、俺の手は動かない。
右腕の黒いノイズが、彼女の顔を見た瞬間に、激しく乱れ、霧散していく。
冷徹な『解析者』であるはずの俺の脳が、彼女を「ただの物質」として処理することを拒絶していた。
「……ああ、そうだ。その顔だよ、ヴァイス君。……君のその『甘さ』こそが、この世界を滅ぼすバグの正体だ」
人形の指先が、俺の胸元に触れる。
世界が静止したように感じられた。
アイリスの悲鳴が、脳内で絶叫に変わる。
その時だった。
(……アルド。……『目』を閉じろ)
脳の奥底。俺が『解体』したはずの、ハンスの教えが、かすかな振動となって響いた。
ハンスの「命の揺らぎ」。
それは、視覚的なデータでも、確定した数式でもない。
ただ、そこに在る命を、定義の外側から肯定する「ノイズ」だった。
「――構造、強制反転。……『解析』を破棄する」
俺は目を見開いたまま、視覚情報の同期を完全に遮断した。
設計図を、数式を、正解を、すべて捨てる。
俺を縛る「アイリスという呪い」さえも、一度、自分ごとバラバラに解体する。
「……ヴァイス君? 何をしている。……自ら防御を捨てたというのか」
ルシファーの声に、初めて動揺が混じった。
俺は、迫りくる人形の拳を、あえて心臓で受け止めた。
衝撃が全身を駆け抜ける。
だが、俺は倒れなかった。
「……ルシファー。お前の『設計図』には、一つだけ欠落がある」
俺は、自分の心臓にめり込んだ人形の腕を、黒いノイズに染まった右手で掴んだ。
「……アイリスは、こんなに『冷たく』ない。……俺の罪を、お前のような偽物の定義で測るな」
俺の右腕から、この日最大の、狂ったような出力の魔力が溢れ出した。
それは形を持たない、混沌の塊。
人形の構造を「理解」するのではなく、その「嘘」を、俺の意志という名の暴力で押し潰す。
ドカァァァァァァン!!
人形の腕が、肩が、そして顔が、耐えきれずに内部から爆散した。
琥珀色の魔力の欠片が、競売会場に降り注ぐ。
俺は、崩れ落ちる「偽物の残骸」を踏み越え、ルシファーへと一歩を踏み出した。
アルド・ヴァイス。
俺の『創造』は、この日、自分自身を構成する「定義」さえも壊し、人ではない何者かへと変貌を遂げようとしていた。
「……面白いね、ヴァイス君。……いいよ、その『怒り』、連邦まで持ち越させてもらうよ。……本当の地獄で、また会おう」
ルシファーは、崩壊する地下室の闇の中へと、霧のように消えていった。
後に残されたのは、粉々になった「アイリスの模造品」と、意識を失いかけた俺、そして――ハンスへの誓いをまた一つ裏切ったという、消えない汚濁だけだった。




