静寂を切り裂くノイズ
地下へと続く階段は、深淵の口のように俺を飲み込んでいった。
壁に埋め込まれた魔導灯が、不自然なほどに明るく通路を照らしている。そこにはリコルヌの地上の汚らしさは微塵もなかった。贅を尽くした絨毯、磨き抜かれた大理石。だが、その清潔さがかえって俺の神経を逆なでする。この美しさはすべて、アイリスという供給源から絞り出された「苦痛」の上に塗り固められたものだからだ。
(……解析。空気中の『滴』の濃度、地上の百倍以上。……心拍、上昇。脳内ノイズ、最大レベル)
右腕が、黒い蛇のようにのたうち回るような痛みを放っている。
懐に忍ばせた、ハンスに使った残りの琥珀色の石が、俺の魔力に共鳴して不気味に熱い。これを使えば、ハンスの時間は止まる。だが、それを使うたびに、俺はアイリスという少女を切り刻んでいるのと同義だ。
「……ハンス、あんたは言ったな。『命とは揺らぎだ』と。……だが、この街は、その揺らぎさえも商品にして、固定しようとしている」
俺は、通路の奥にある巨大な金色の扉の前に立った。
そこからは、何十人もの人間が放つ高揚感と、欲望が入り混じった熱気が漏れ出している。
「……構造解析。……対象:防護結界。および――競売会場全体」
俺は左手を扉に当てた。
視界が青白い数式の奔流に呑み込まれる。
扉の奥に広がる円形劇場のような空間。そこに座る、肥え太った商人たち。舞台の上で恭しく提示される、琥珀色の『滴』の数々。
そして――そのさらに奥、舞台の地下に眠る、巨大な「抽出機」の構造を、俺の『解析』が捉えた。
(……見えた。アイリスの『生体データ』を中継している、巨大な魔導回路。……ルシファー、お前の設計図か)
俺の口角が、無意識に歪んだ。
今の俺なら、この街を、この地下を、一瞬で「無」に還すことができる。
「止まれ! 何者だ、貴様!」
背後から、四人の警護兵が駆け寄ってくる。彼らの手には、帝国の技術を不格好に模倣した魔導剣。
俺は振り返りさえしなかった。
「……邪魔だ。構造定義、強制書き換え。……お前たちの武器は、ただの『自爆装置』だ」
俺の右腕から溢れ出した黒いノイズが、空間を伝って彼らの武器に干渉した。
金属の構造が内側から崩壊し、圧縮された魔力が逃げ場を失って爆発する。
悲鳴を上げる暇もなく、男たちは自分の武器に焼かれ、床に転がった。
「――全解体、および、再定義」
俺は金色の扉を、物理的にではなく「概念」としてこじ開けた。
扉を構成する分子の結合を一時的に無効化し、巨大な板をただの砂へと還元する。
サラサラと音を立てて扉が崩れ落ちる中、俺は光溢れる競売会場へと足を踏み入れた。
「……なんだ、あいつは!?」
「衛兵はどうした! 競売を止めるな!」
壇上のオークショニアが、狼狽えて叫ぶ。
着飾った紳士淑女たちが、泥にまみれた死神のような俺を見て、恐怖に顔を引きつらせた。
俺は、壇上に並べられた『滴』の入った小瓶を、冷徹に一瞥した。
「……いい値段だな。……だが、それはお前たちが払える代価じゃない」
俺は左手を高く掲げた。
狙うのは、この会場に張り巡らされた魔力ラインの集中点。
そして、ルシファーがこの街の経済を縛り付けている「富の根源」だ。
「……解析。対象:リコルヌ中央銀行、全取引データ中継器。……および、滴の価値基準」
俺の視界の中で、この街の「金」の構造が剥き出しになる。
ルシファーがアイリスの苦痛を「通貨」として定義し、それを信用として経済を回している仕組み。
ならば、その「定義」を、俺がここで『解体』してやる。
「――お前たちの『宝』を、ただの『苦悩』に戻してやる」
俺の右腕から、黒い稲妻が噴き出した。
それは天井を貫き、壁を伝い、競売場の中枢へと突き刺さる。
会場内の『滴』が、一斉に琥珀色の輝きを失い、ドロドロとした黒い液体へと変質していった。
「な……っ、滴が……消えた!? 泥になったぞ!」
「金が……俺の金貨の輝きが消えていく!?」
パニックが広がる。
俺が『滴』の価値を解体した瞬間、それに連動していた連合の魔法通貨(信用)が崩壊を始めたのだ。昨日まで大富豪だった連中の手元にあるのは、もはや価値のない金属の破片と、アイリスの悲鳴が混じった汚泥だけ。
「……アイリスを、素材にするなと言ったはずだ」
俺は、混乱に陥った会場を悠々と歩き、舞台の地下へと続く隠し扉へと向かった。
背後で、欲望にまみれた人間たちが、価値を失った「ゴミ」を抱えて泣き叫んでいる。
(……待ってろ、アイリス。……お前の『欠片』は、俺がすべて壊してやる)
地下への階段を下りる俺の背中に、冷徹な殺気が突き刺さった。
「……不器用だね、ヴァイスくん。経済そのものを壊すなんて、非合理的にもほどがある」
階段の下、暗闇の中から現れたのは、非の打ち所のない美貌を持った青年だった。
ルシファー。
魔王軍の幹部にして、この地獄の設計者。
「……お前が、ルシファーか」
「いかにも。……せっかく綺麗に回っていた私の『システム』を、君のようなノイズが壊すなんてね。……でも、いいよ。これもまた、一つのデータだ」
ルシファーが指を鳴らした瞬間、俺の視界の『解析』データが、一斉に反転した。
構造が読み取れない。
いや、構造そのものが「嘘」を吐いている。
「……君に教えよう。……本当の地獄は、金が消えた後、人間がどうなるか……ということだ」
ルシファーの背後に、アイリスの肉体を模して作られた、巨大な「魔導人形」が姿を現した。
それは、かつて俺が救いたかった少女の顔をしながら、無機質な殺意の波を放っていた。
俺の『創造』は、この日、初めて「自分と同じ力」を持つ怪物と対峙することになった。




