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境界を越える死神

足元の泥濘が、いつの間にか硬く、冷たい岩肌へと変わっていた。

背後に広がる自由都市リコルヌの空は、いまだに焦げ付いた赤色に染まっている。俺たちが歩いてきたわだちの先で、一つの時代が、一つの経済が、俺の手によって『解体』され、煙となって消えていく。


(……解析。標高、上昇。気圧、低下。……大気中の魔力密度、三〇〇%増加。多種族混成の術式残滓を感知)


俺、アルド・ヴァイスは、意識のないハンスを背負い、左手でアイリスの空っぽの身体を抱き寄せながら、険しい国境の山嶺を越えていた。

リコルヌで奪い取ったわずかな食料と、ハンスの命を繋ぎ止めている琥珀色の『滴』。それが、今の俺たちの全財産だ。


右腕の黒い煤は、もはや肘の上まで侵食し、絶えずパチパチと不吉な放電を繰り返している。

俺の『創造』は、もはや制御を離れつつあった。ただ歩くだけで、俺が触れた岩は砂になり、俺が踏んだ枯れ草は炭に変わる。俺という存在そのものが、この世界の設計図を食い破る「穴」になり果てていた。


「……アルド、さん。見て……。あっちに、何か見えるよ」


隣を歩くエレナが、震える指で谷の向こうを指差した。

彼女の顔は疲弊しきり、ハンスの救急鞄を抱える手は赤くひび割れている。だが、その瞳だけは、この地獄のような旅路にあっても、まだ「明日」を探そうとする光を失っていなかった。


俺は視界を『解析』のモードへ切り替えた。

視界が青白く反転し、数千、数万の魔力の線が交差する。

――前方五キロ。巨大な森林地帯の入り口。

――燃え上がるエルフの隠れ里。

――蹂躙する、異形の魔力波形。


(……魔王軍。……解析。対象:下級兵。アンデッド、および巨大節足生物)


連邦。ここは、多種族が共存し、かつ、もっとも激しく『神のシステム』に抗う者たちが集う場所。

そして、「バグ」として存在する魔王軍が抵抗を見せるために本格的に侵攻を開始した煉獄だ。


「……アイリス、耳を塞いでろ。……エレナ、ハンスを俺の背中に固定しろ。……ここからは、道がない」


「……え? 助けに行くの……?」


「……邪魔なものを、退かすだけだ」


俺は、アイリスをエレナに預けようとしたが、彼女の身体が不自然に硬直しているのに気づいた。

アイリスの濁った瞳が、一点を見つめている。

いや、見ているのではない。

彼女の中にインストールされた「神のシステム」が、戦場の魔力に共鳴しているのだ。


「……同期率……九三パーセント……。……排除対象……多数……。……聖絶聖絶(パージ)を開始……します……」


彼女の唇から漏れる、感情のない合成音声。

その瞬間、俺の右腕が激しく疼いた。

アイリスと俺は、今や一つの「終わりの回路」で繋がっている。

彼女が世界を消そうとすれば、俺の腕がそれを具現化具現化(創造)してしまう。


「……黙ってろ、アイリス。……お前の『筆』を動かすのは、俺だ」


俺は彼女を強引に抱きかかえ、谷底へと飛び降りた。

重力を『解体』し、落下の因果を「静止」させる。

着地の瞬間、衝撃を周囲の地面へと「創造」し、半径十メートルの土砂を爆発的に吹き飛ばした。


森の中に入ると、そこは血と硝煙の匂いに満ちていた。

エルフの戦士たちが、自分の背丈の数倍もある巨大なムカデの化け物に食い殺されている。

死霊死霊(アンデット)たちが、倒れた者の肉を貪り、新たな兵士として継ぎ接ぎにしていく。


(……解析。構成:死肉と負の魔力。……美しくないな。……解体しろ)


俺は、一体のアンデッドの頭部に右手をかざした。

構造解析。

死んでいるのに動いている、その「矛盾した定義」の一点を突く。


バキィィィィィン!!


俺が触れるまでもない。

俺から溢れ出す黒いノイズが、アンデッドの構造そのものを「存在しないもの」として消去した。

塵も残らない。ただ、そこにいたという事実だけが、空間から削り取られた。


「な……何だ、あの人間は……!?」

「魔王軍じゃない! 帝国でもない! あの禍々しい右腕は……!」


逃げ惑うエルフたちが、俺を見て、救世主ではなく「より恐ろしい怪物」を見る目で立ちすくむ。

俺は、それらをすべて無視した。


目の前に、巨大なムカデが鎌を振り上げて迫る。

その体表面には、魔力を弾く不気味なノイズの防壁が張り付いている。魔王軍特有の「バグの鎧」だ。


「……解析。……ふん、ルシファーの部下か。……お前の構造、俺がリコルヌで『解体』したものと同じだ」


俺は、ムカデの硬い外殻を左手で掴んだ。

そして、右腕の黒い雷を、一気にその内部へと流し込む。


ドォォォォォォォン!!


ムカデの巨体が、内部から噴き出した漆黒のエネルギーによって木っ端微塵に弾け飛んだ。

爆風が森の木々をなぎ倒し、立ち込めていた霧を吹き飛ばす。


「……はあ、はあ、はあ……っ」


俺は膝をつき、激しく喘いだ。

右腕の侵食が、一気に肩口まで広がっているのがわかる。

力を振るうたびに、俺は「人間」という構造から遠ざかっていく。


「……アルド、さん……。大丈夫……?」


ハンスを背負ったエレナが、木陰から震えながら駆け寄ってきた。

俺は彼女を制し、右腕をコートの中に隠した。

アイリスは、相変わらず虚空を見つめ、無機質な声を漏らし続けている。


「……行くぞ。……この森の奥に、魔王軍の『拠点』があるはずだ。……ルシファーが言っていた。本当の地獄はそこにあると」


「……地獄を、探しに行くの?」


「……ああ。……アイリスの『中身』を奪い返すための、材料がそこにある」


アルド・ヴァイス。

俺の旅は、連合という黄金の檻を抜け、連邦という名の血塗られたキャンバスへと足を踏み入れた。

ここには魔法も、平和も、希望もない。

あるのはただ、生き残るために互いの定義を削り合う、バグたちの生存競争だけだ。


森の奥から、さらなる異形の咆哮が響く。

俺の『解析』は、次なる四天王――『千王』の、冷徹な槍の波形をすでに捉え始めていた。


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